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「シグナルとシグナレス」のモデル

先日、及川(大畠)ヤスと夫・末太郎の消息を詳細に調査した論文「ある花巻出身者たちの渡米記録について」に関する記事を書きましたが、著者である布臺さまから新たに興味深い論文があることを教えていただきました。

米地文夫さんの『「シグナルとシグナレス」の三重の寓意―岩手軽便鉄道国有化問題と有島武郎の恋と天球の音楽と―』(2015年)という論文です。

ごく簡単に説明すると、賢治の作品「シグナルとシグナレス」には三つの寓意があるというものです。
ひとつは、私鉄の岩手軽便鉄道(ほぼ現JR釜石線)を国有化し東北本線につなぎたいという運動がモデルというもの。
二番目は、シグナルとシグナレスの恋は有島武郎と河野信子(新渡戸稲造の姪)の恋愛であること。
三番目は作品に出てくる「ピタゴラス派の天球運行の諧音」とは、島地大等の説いたピタゴラスの「天球の音楽」、と有島武郎の「星座」という作品から影響をうけており、それぞれの惑星がその自転によって発する軋みが音楽になり、その美しい天上の和の調べが恋人たちを感動させるというものであること。

この説に合点がいったのは、「シグナルとシグナレス」が賢治とヤスの恋をモデルにしたものだという説には、なるほどと思いながらも腑に落ちない点があったらからでした。
シグナルは身分の高い「若さま」であり、賢治がはたして自分をそのように描いたかどうか。家業を嫌い、花巻の財閥の一員であることを恥じていた賢治です。
それに、賢治が恋に破れた直後に、ごく一部の人間しか知りえないことをはらいせのように地元新聞にあからさまに公表するようなことをしただろうかという疑問。

ところが、有島武郎の恋がモデルだとしたらすんなり納得できます。
有島武郎の家は身分の高い家柄であり「若さま」と呼ばれるような立場だったこと、相手の河野信子は母が産婆として働く母子家庭で、息子・武郎の結婚相手は上流階級から選びたかった父から結婚の許可が出なかったといいます。この話は当時花巻の人々にも伝わっていたらしく、郷土の誇りである新渡戸稲造の姪を家柄が低いという理由で退けた有島武の言動に反感をもっていたといい、賢治もそのひとりではなかったかという。そんな悲恋を、一つの物語にして新聞に発表したとすると、大勢のひとはああ、あの話だなと思い当たったことでしょう。

ほかにも「黒ぶどう」という作品に、有島武郎との関連を見出すことができ、賢治が白樺派の文化活動などにも関心を寄せていたということで、「シグナルとシグナレス」のモデルが有島武郎の恋だということには説得力があります。逆に、賢治自身の恋をあてはめようとするには無理があります。
ただ、論文にもあるように、賢治が有島武郎と河野信子の悲恋に自分の失恋を重ねて思い浮かべたといういことは十分あると思います。つまり作品を書く動機にもなったであろうことは容易に想像はできます。



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「ある花巻出身者たちの渡米について」~大畠ヤスの渡米の詳細 [検証]

長らくブログをご無沙汰しておりました。
個人的な事情もようやく落ち着いてきたのと、
ぼちぼち時間も作れるようになったので、今後も続けて記事を更新できればと思っています。

さて、少し前に、花巻市の「花巻市博物館研究紀要」第14号に
たいへん興味深い論文が掲載されたことを知りました。
宮澤賢治の恋人だったのではないかと言われている女性・大畠ヤスさんについて
結婚相手や渡米時の様子、シカゴでの暮らしや亡くなった経緯が
詳細に明らかにされていて初めて読んだ時にはたいへん驚きました。
現在はPDFで閲覧できますが、時間が経つと消えてしまうことが予測できるので
要点を記事にしておきたいと思います。

「花巻市博物館研究紀要」第14号リンク
P27~33(2019年3月発行)

論文を書かれたのは花巻在住の布臺一郎さんという方で
米国公文書記録のインターネット閲覧等を利用して綿密に調査されています。

これまでに大畠ヤスに関して出版された本の内容とは大きく違う部分もあり
賢治ファンとしては、真実の情報を知りたい、というのが共通の思いではないでしょうか。
以下にまとめます。


及川(大畠)ヤス 
1900(明治33)年4月7日生まれ 1927(昭和2)年4月13日死亡 豊沢町出身※花巻出身

及川末太郎    
1881(明治14)年4月12日生まれ 死亡時期・場所不明 1943(昭和18)年9月23日 第二次抑留者交換で帰国した可能性あり 大迫町出身

及川修一     
1926(昭和元)年8月3日生まれ 1929(昭和4)年4月2日死亡 出生住所シカゴ市エリス街2949番

ヤスの死因:僧帽弁狭窄症・心不全(誘因:拡張型心筋症)
修一の死因:急性粟粒性結核

及川末太郎は1898年5月からイリノイ州に在住
職業はホテル業(及川旅館:oikawa room)、食料品店(及川日本品商会)
住所 シカゴ市エリス街2949番

ヤスと末太郎の渡米は1924年6月1日 横浜出航 
          同年6月27日米国ワシントン州シアトル着
KAGAMARUの乗船者名簿には末太郎とヤスの名前が掲載されており旅費は二人で300ドル



まず一番大きな違いは、夫の名前と職業、出身地です。
夫だと書かれていた「修一」というのは、実は子どもの名前。
出版された本には土沢出身の医師だと書かれていたので、ちょっとびっくりですね。

もうひとつはヤスの死因。「結核」ではなく「心筋梗塞」ということです。
(医学情報サイトによると僧帽弁狭窄症の症状としては喀血があるとのこと)


なお、修一の出征証明書の母親の子どもの数の欄には「stillborn one」とあり死産1だとわかります。
(これをめぐっては、本の再販で加筆された部分に、多くのひとの名誉にかかわることが推測されており、そこは問題があると思います。)


本では、ヤスが親戚に送った葉書の文面から、たった一人で日本を立ったということになっていますが、「ただ一人だったのですもの」というのは見送りに来た人が一人だったという意味だと言えます。
当時、賢治の同級生なども渡米した人が数人おり、渡米はある面、憧れやステイタスだったかもしれません。またヤスが末太郎との結婚を受け入れたのも、一概に年の離れた不似合いな結婚で、不幸だったとも言い切れません。賢治は教師として得た収入のほとんどをレコードや書籍に使ってしまうような人だったので、結婚をしたいと言ったとき、心配したり反対する人もあったでしょうし、ひょっとしてヤス自身が不安に思い始めたという展開も想定できます。つまり想像のうえではなんでもありうるのですね。
仮につらい別れがあったとしても、結婚後しばらくは米国で成功している年上の夫に大切にされ幸せに暮らしたと考えることは可能だと思います。
それよりも、日本から妻となる若い女性を呼び寄せ、幸せになろうとしていたのに、数年の間に妻にも子にも先立たれてしまった及川末太郎の心境を思うととても辛いですね。

今回明らかになった資料からも言えることは、検証が不十分な資料と聞き取りによる推測では、客観的根拠に乏しく、はたして賢治とどこまで相思相愛だったか、相手は確かに大畠ヤスだったのかも疑問の余地があると感じています。

「賢治研究」131号で栗原敦さんが『校本 宮沢賢治全集で発表できなかったこと・小沢俊郎さんからうかがった話』を掲載されています。全集に賢治が恋した人の存在が示されようとしたが、ある研究家の詮索の手紙によって清六さんが「これだから困る、先の承諾はなかったことにする、公表はまかりならぬ」と取りやめになった経緯を載せています。
「人物を特定することなどはどうでもよく、ただ、作品表現にあれだけの表徴がなされているのだから、事実として背後にそういった事柄があったということがはっきりすればそれでよかったんだけれどねぇ」という小沢さんのことばの意味が、いまとなってはとてもよくわかります。

さかのぼって同じく「賢治研究」115号「新校本全集訂正項目・「きみにならびて野にたてばー賢治の恋」の〈詩〉読解のこと」には、「詩作品の読解が牽強付会にすぎるのは、自分の立てたロマンに目がくらんでいるためにちがいありません。」として、「岩手山」や「高原」を恋愛の物語の裏付けにしないほうがよいことと、文語詩「[なべてはしけく よそほいて]」の誤読の指摘があります。
「伝記的事実の探求はその次元で徹底し、誤読とみなされるような作品の読解などで色づけしないほうがよいことだけは確かです。」

解釈はひとそれぞれ、どのように読んでもよいのではと以前は思っていましたが、それは、やはり、真実を求めるならば、できる限りの資料に当たり記録を調べ、客観的根拠に基づいたうえで初めて成り立つものだと思います。人に伝えたいのならなおのことです。
個人の思いを綴りたいのなら「事実」と「推測」と「想像」は、明確に区別すべきであり、研究ならば、引用や参考資料をきちんと提示すべき、というのが私の考えです。
作家として小説を発表するならそれはまた別の分野です。

最後に。一賢治ファンとして、いろんな方々とかかわり、やり取りすることは学ぶことも多く、読んだこと聞いたこと言われたことが、その時にはピンと来なくても、後になってからそうだったのか、それが正しく最善のことだったなぁと気づくことも多くあります。
賢治を追いかけることで、人としても学ぶことが多い、というより、まさに人としての在り方、生き方を学んでいるのかもしれないと思う昨今です。
だから賢治がやめられません。


※訂正:大畠ヤスの出身地について、布臺さまより、豊沢町とは確定できておらず、おそらく当時の大工町(現在の双葉町)かと思われる、とのご指摘をいただきました。この部分は私の思い込みでした。よって豊沢町を棒線で消し、花巻出身としました。(2019.5.20)

追記:奇遇にも同じ日に浜垣さんのブログ『宮澤賢治の詩の世界』に「シカゴの及川家の消息」という記事がアップされています。素晴らしい考察で、興味深い新たな情報も記載されているので、ぜひお読みください。
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『ゆうじょこう』村田喜代子 [本]

村田喜代子さんの『ゆうじょこう』(新潮文庫)を読んだ。

明治36年、硫黄島の貧しい漁師の娘・イチが、
父親に売られて十五で熊本の大遊郭にやって来るところから物語が始まる。

過酷な運命の中、懸命に生きる少女たちの姿を描く村田喜代子さんの筆は、
けっしてじめじめとはしていないことが救いである。

随所に挟まれる、イチが女紅場(遊女たちの学校)で書くお国なまりの日記が
彼女の感性と聡明さと健気さを現し、
イチはもとより、読者の心の拠り所ともなる。

男のための社会。
遊女は借金の形に差し出され、
男を喜ばすための技能をたたき込まれる。
それはまだいいほうの楼閣で、
等級の低い貧しい見世では、ただ男たちの欲望のままのおもちゃになり
心身をボロボロにすり減らし、運の悪い者は命を落とす。

福沢諭吉は「天は人の上に人を造らず」と言った人物として
一万円札にも肖像が刷られているが
じつはとんでもない差別主義者だったことを知った。
諭吉が人間として見ていたのは、身分ある家の婦女子のみで、
いかに書を読み博学多才であっても、気品が高くなければ淑女ではない、と。

〈例えば芸妓などと言う賤しき女輩が衣裳を着飾り、酔客の座辺に狎れて歌舞周旋する其の中に、漫語放言、憚る所なきは、(中略)之を目して座中の淫婦と言わざるを得ず〉

〈芸妓の事は固より人外として姑く之を擱き〉

のっけから遊女を「賤しい女輩」と断定し
人間ではないと言い放っているのである。


誰も自ら好きこのんで遊女になった者はいない。


福沢諭吉は、このころ起きてきたストライキを咎め
「国の力をつけるためには、智慧なき貧しい者の言い分をいちいち聞いているわけにはいかぬ」とも言ったらしい。
この構図は、まさに現在進行形ではないか!と背筋が凍る。
今の私達の社会は、明らかに時代を逆行している。

「けれど大きなものばかりを大事と見るのは、国にとっても人にとっても、危ういことではありませんか」と、女紅場の教師である鐵子さんは憤る。
私には一万円札が、忌々しいものに見えてくる。


明治5年には「娼妓解放令」なるものができたが、
横浜にやって来たペルーに娼妓の奴隷売買だと咎められて、
かたちだけの通達をだして取り繕っただけの、実態の無いものだった。
同じ月に「牛馬切りほどき令」と呼ばれる通達がでる。
〈娼妓芸妓は人身の権利を失ふ者にて、牛馬に異ならず。人より牛馬に物の返弁を求むるの理なし。故に従来同上の娼妓芸妓へ借す所の金銀並に売掛滞納金等は、一切債るべかざる事〉

つまりは遊女は牛や馬と同じと言っているのだ。

精神科医・斉藤環さんの「関係する女 所有する男 (講談社現代新書)」という本に
男は妻子を、自分が柵の中で飼っている牛だと思っているのだ、と書いてあったのを思い出す。

女は、牛ではない。
現代では、どんな女性も人間として扱われている?
そうだろうか?
まだまだ、社会は男のものだ、と思う。

折しも、救世軍や婦人団体の運動もあって、娼妓の自由廃業の道が開かれつつあった。
明治37年の暮れ、楼閣の花魁をはじめとするイチたち35人は、
待遇の改善をせまりストライキを起こした末に、ついに見世を抜け出すことに成功する。

イチの故郷の海では
大きな海亀は神様だった。
イチはその夜、その神様とともに裸になって泳ぐ夢を見る。
遊女から、人間の女に生まれ変わったのである。


ゆうじょこう (新潮文庫)


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保阪庸夫さん [思うこと]

保阪嘉内の次男・庸夫さんが7月5日の夕方、
天国へと旅立たれました。

甲府の手紙展と渡辺えりさんの講演があるということで
私は、7月9日・10日の二日間、山梨に行く予定を立てていたところでもあり
庸夫さんのお見舞いにも行けるつもりだったので
お知らせをもらったとき、まさかと愕然としてしまいました。

8日の告別式とその後の偲ぶ会に参加させて頂きましたが
庸夫さんのお人柄が偲ばれる温かなものでした。
親族はもちろん、賢治やアザリア関係の方々が
心から庸夫さんの逝去を悼んでおられました。
聞くと、前日7日のお通夜の夜には
七夕には珍しく空が晴れ、
ベガ・アルタイル・デネブの夏の大三角形が輝いていたとか。
庸夫さんはその中を銀河鉄道に乗って行ったのでしょうか。


庸夫さんに初めてお会いしたのはたしか2008年。
何の実績も肩書きもない、ただのいち賢治&嘉内ファンだった私を、
ほんとうに温かく迎えてくださった。
奇しくも賢治の命日の9月21日。

一見厳しそうでも、ほんとうはその懐は海のように深く広く、優しく、ユーモアにあふれた方でした。
そして、どんなひとにも分け隔てなく接する方でした。

韮崎駅から電車に乗って帰る私を、アザリア記念会の皆さんと一緒にわざわざ来て送ってくださって、握手をして頂いた手の優しさと温かさの感触が、今も忘れられません。
電車が来て乗り込むまで、高架下の広場からホームに向かって手を振ってくださったお姿が忘れられません。

短い時間の中でも、ひととして、もっとも大切なものを教わったような気がします。
もっともっと、いろんなお話を聴きたかった。

賢治研究の世界に、庸夫さんが遺したものの大きさは
おそらく時間が経つほどに理解され、認められるものだと思います。

庸夫さんは私にとって、嘉内、賢治と同じくらい大きな方でした。

今ごろは父・嘉内や大好きな賢治と会って
積もる話をしておられるのではないかと思います。

私もまたいつかは向こうの世界へと行く。
それまでの間、
少しでも庸夫さんの遺志を受け継ぎたいと思うし、
自分自身の一日一日を大切に生きることが、
何よりよろこんで頂けることかもしれないとも思う。

「庸夫先生、あちらでまたお会いできる日を
楽しみにしています!」

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昨年の碑前祭での庸夫さん





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特設展「宮沢 賢治 保阪嘉内への手紙」山梨県立文学館 [催し物]

山梨県立文学館にて
賢治から嘉内への手紙が再び展示されます。

73通全ての手紙が初めて公開されてから、もう9年も経つんですね。
あの時の感動は、今も忘れられません。

関連イベントも要チェック!

7月10日(日)には渡辺えりさんの講演もあります。
私も参加予定。

詳しくは文学館のHPを見てね。



特設展 『宮沢 賢治 保阪嘉内への手紙』 

2016年7月9日(土)~8月28日(日)

賢治自筆の手紙73通を公開  

詩、童話に独自の世界を切り開いた宮沢賢治。

山梨県出身の親友・保阪嘉内に宛てた73通の手紙から、二人の生涯と友情をたどります。


【会場】山梨県立文学館 展示室C

【会期】2016年7月9日(土)-8月28日(日)

【休館日】7月11日(月)、25日(月)、8月1日(月)、22日(月)

【時間】9:00-17:00(入室は16:30まで)


◆渡辺えり講演会「宮沢賢治と保阪嘉内」 要申込 
 
講師 / 渡辺えり(劇作家・演出家・女優)、 日時 / 7月10日(日)午後1:30~

会場 / 講堂、 定員 / 500名



山梨県立文学館のページはこちら→

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『荒地の恋』 [本]

ねじめ正一さんの小説『荒地の恋』を読み終えた。

事実をもと書かれたとはいえ、やはり小説、まるごと事実ではないと思うが、実在の詩人たちの人間模様を赤裸々に描いている。詩人たちのことを殆ど知らない私でも、一気に読んでしまうけれん味があった。

主人公は田村隆一、鮎川信夫らと『荒地』を創刊した北村太郎である。
正直、私は序盤の部分、親友・田村隆一の妻・明子と恋に落ち、家族を捨てるところは読んでいてとても辛く、この本を手に取ってしまったことを後悔もした。
身勝手なことをして、妻の心もプライドも踏みにじる。あげくに取り乱し執着するほうが悪者のような描き方。男の目線で書かれた部分に、強い憤りを覚えること数回。
何の落ち度もない妻を、地獄に突き落として許されるわけがない、と。
私のこの反応は、今の自分自身の精神状態も大いに関係はしているのだと自覚はするのであるが。
それでも。
明子が田村のもとに戻ったり、それでも「家族」のような気持ちで気にかけ面倒を見たり見られたり。
それに加えて若い恋人・阿子との愛欲。
後半は半ば呆れて、なぜかしら平常心で読み進む。
様々な人生模様。
親友たちの相次ぐ死、
友が死ぬまで隠し通したもの。
そして、余命3年の宣言を受け、死んでいく北村。

最後の最後で、なぜか私の個人的な深い悩みをあっけなくはじけ飛ばしたのは、
北村太郎の葬儀に現れた阿子に、彼の双子の弟が言った言葉と、
そして、彼女が隠していた「秘密」だった。

妻・治子はどう生きたのだろう。
でも、人生は一度きりなのだ。
結局は「やったもん勝ち」なんじゃないか。
惚れた晴れたで、修羅場をくぐってでも、やりたいことをやってしまった方が幸せ?
どうしようもない心の衝動を、押さえつけて犠牲になって、被害者意識で生きるよりもずっと幸せ?

なんだか悩んで恨んで殻に閉じこもって、うじうじしてきた一年余りが急に馬鹿らしくなってしまった。
(念のため言っておくけど、決して、自暴自棄になったり、好き勝手にして人を傷つけてもよいということではない。)
生きるって、こういうことなのかもしれない。
嫌な目に遭わされてもいいじゃないか。
ひとに迷惑をかけても仕方ないじゃないか。
裡に燃えるものを失って、亡霊のようになってしまっては、自分が一番ソンじゃないか。
幸せってなんだろう。
いいことも悪いことも、いっぱい抱えて、
最後に、ああ楽しかった、そう思って死んでいければ
それがいちばん幸せなのかもしれない。
そんなことを、最後のページを閉じるときに思った。

日曜日の午後、ひとりで買い物のついでに入ったカフェで読了したのだが、
外に出てみると、嵐のあとの青空に、雲が流れている。
そして風はもう、春の匂いがした。

私も、そろそろ冬眠から目覚めよう。



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宮澤賢治の「悲嘆の仕事(グリーフワーク)」 第7回イーハトーブ・プロジェクトin京都より [催し物]

書こう書こうと思いつつ、
日々の雑用や仕事、年末の準備などに追われて、
早くももう一ヶ月経ってしまいました。
年を越してしまわないうちに、とPCのキーをたたいています。

11月29日(日)、「第7回イーハトーブプロジェクトin京都」に行ってきました。
今回は「宮澤賢治の「悲嘆の仕事(グリーフワーク)」。
京都府庁旧本館正庁の趣のある建物の中で、
竹崎利信さんのかたりと浜垣誠司さんの解説によって
妹トシを喪った賢治の心の軌跡をたどるというものでした。

死ぬことの向こう側まで一緒についていってやりたいという思いと覚悟。
トシ臨終の深い悲しみと傷。
亡き者への執着と探求。
その苦しみと心の葛藤を経て
賢治が愛する妹の死を受け入れ乗り越えてゆく様を追体験する企画は
賢治の生涯のなかでもおそらく最も重要な部分のひとつを知るものだったのではないでしょうか。

個人的なことですが、私は、約一年前から大きな悩みをかかえていて、
その葛藤と苦しみからか、
大好きなはずのこともいっこうに手が着かず、
何をしていてもどこか心ここにあらずの状態。
日々を普通にこなすことがやっとという有様でした。
いっときは気を持ち直してはいたものの
冬という季節は人の心を冬眠のように籠もらせてしまうものなのでしょうか、
また最近は何もする気になれないようになってしまっています。
こんなことではイカンと思いつつも・・・。

そんなこともあって、私は心身ともに疲れているのだろうと自覚したのは
通常なら頭も心も覚醒したまま聴いたはずの賢治の作品を
なんだかぼんやり聴いてしまっていたからでした。

竹崎さんの美しい「かたり」。
それは表面をなぞるのはなく、対象を自分のなかに取り込んで同化し
そしてはき出されるもの。
お声はまるで理想の賢治のようであり、
異空の彼方からやってくるような不思議な響きを持っています。

その心地よい、深い響きに包まれて
いつしか私は、身心に染みついた賢治のことばを
夢うつつのように聴いていました。

薄暗い古く美しい建物の中は
そこだけがぽっかり銀河のなかを旅していた、
そんな気がするのは私だけでしょうか。

はっと我に返ったのは、ジョバンニがあの真っ暗な石炭袋を見つけたあたりでした。
そして、突然、消えてしまったカムパネルラ。

賢治の哀しみ、語り手の哀しみ、私の哀しみ・・・
そして誰かの哀しみ。

結局、ひとはたったひとりで、
哀しみを抱かえながら透明な軌道を進んでいくしかないのでしょう。

それでも、あの空間で響きあった哀しみからは
きっと美しいもの、そして今日を生きる力が生まれてきた気がします。

公演のあとの余韻は長く、いろいろ思いを巡らせて
ふと気付いたこと。

「銀河鉄道の夜」という物語。
・・・カムパネルラを追ってジョバンニは鉄道に乗った。
死にゆくカムパネルラ。
ひとりで逝かせるのは可愛そうだから
ジョバンニが銀河の向こうまでついて行ってやった。・・・
ずっと私はそう思っていたのですが
じつはそうではないのだという考えが浮かびました。

カムパネルラを喪って、辛く哀しいのはジョバンニのほう。
カムパネルラにとって死はちっとも怖くない。なぜなら“お母さん”のところに行くのだから。
カムパネルラがどこへ行ったかわからず、孤独で不安で寂しいのはジョバンニ。
だからカムパネルラは、ジョバンニの意識に入り込んで、「一緒についてきてやった」のではないか・・・?

《僕もうあんな大きな暗の中だってこわくない。きっとみんなのほんたうのさいはいをさがしに行く。どこまでもどこまでも僕たち一諸に進んで行かう。」「あゝきっと行くよ。あゝ、あすこの野原はなんてきれいだらう。みんな集ってるねえ。あすこがほんたうの天上なんだ。あっあすこにゐるのぼくのお母さんだよ。」カムパネルラは俄かに窓の遠くに見えるきれいな野原を指して叫びました。》

「僕もうあんな大きな暗の中だってこわくない」・・・
そうジョバンニがそう思えるようになるまで、
カムパネルラはジョバンニの側についていたのです。
しかもみんなのほんとうの幸いを探しにいくことを
ジョバンニがほんとうに決心するまで。

「ほんたうの天上へさへ行ける切符だ。天上どこぢゃない、どこでも勝手にあるける通行券です。こいつをお持ちになれぁ、なるほど、こんな不完全な幻想第四次の銀河鉄道なんか、どこまででも行ける筈」
ジョバンニは生きる限り、
どこまででも行ける切符をその手に持っているのだということを自覚させ、
たとえ自分がいなくても、暗闇のなかでも突き進んで行く勇気と力を与えてから
カムパネルラは消えたのです。

「ついて行ってやった」と「ついて来てもらった」は全く違う。
逆を考えてみたとき、
ジョバンニが銀河鉄道に乗った理由がはっきりとわかるような気がします。

賢治を残して行ってしまった人々・・・
子供の頃から、賢治は何人もの大切なひとを失っています。

なかでも最愛の、不憫な妹トシを失った賢治が
死後も彼女の存在を感じることによってその喪失感と哀しみから立ち直っていく姿は
ジョバンニに寄り添うカムパネルラと、立ち直っていくジョバンニの姿と重なって見えます。

さらに、ジョバンニに寄り添うのは、カムパネルラだけではなく
一緒に汽車に乗り込んで関わったすべての人たちです。

ジョバンニはひとりぼっちで生きて行かなくてはならない、
けれども、決してひとりぼっちではない。
だって、すべてのひとがジョバンニを支えているのだから!

はたして賢治はそう描きたかったのか、どうか。
けれども、もう、私にはそのような物語にしか読めなくなってしまいました。

「銀河鉄道の夜」という物語は、まさに「グリーフワーク」そのものの
物語ではないかと思います。

トシについていってやりたいと願った賢治は
じつはトシに寄り添われて生きていったのだと思います。

私もまた、今、たくさんのひとに支えられて
生きていられることに感謝しています。


浜垣誠司さんブログ「第7回イーハトーブ・プロジェクトin京都・終了」→こちら
竹崎利信さんブログ「悲嘆の旅の彼方に―おしまいは『銀河鉄道の夜』」→こちら  

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第8回『保阪嘉内 宮澤賢治 花園農村の碑 碑前祭』 [催し物]

今年も行って参りました、碑前祭。
もう一週間経ってしまったんですね~。
当日17日は心配されたお天気も、雲は多かったものの大丈夫でした。
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山猫博士の向山事務局長と清水会長

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碑文朗読は韮崎さざなみの会の金亮子さん

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韮崎市民合唱団とふぉーくしんがーず(さぶちゃん&じゅんちゃん)
による「勿忘草の歌」「帰去来」「アザリア」など

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みんなで乗り込む銀河鉄道

第2部の記念講演、その前に
2014年9月の埼玉県小鹿野町での「宮澤賢治・保阪嘉内 友情の歌碑祭」の模様をDVD上映。
お祖父さんの嘉内さんもびっくり、美佳さんの素晴らしい口上に大感動!

澤口たまみさんの講演、
「宮澤賢治 愛のうたーシグナレスとの恋、嘉内へのあこがれ」は
一般の人にも、コアな嘉内・賢治ファンにも興味深く聴き応えあるものでした。
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私としましては
著作やブログなどからうかがい知る、そのしなやかで繊細な感性と科学者としての確かな目に
憧れと尊敬の思いを抱いてきた澤口さんと
やっとお会いできるたことのよろこびはたいへん大きく
また、その気さくで楽しいお人柄にふれることができ
さらにさらにファンになってしまったのでした。
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澤口さんと保阪庸夫さん、とってもいいお顔のおふたり

碑前祭のあとは銀河展望公園で美しい夜景と月、中央線の列車が行くをみる。
そして姉妹亭にて恒例の歓迎会兼打ち上げ、
いつも美味しい料理!
今回は飲み過ぎないようにちょっぴり自粛(?)

次の日18日は嘉内の誕生日。
素晴らしい秋晴れピーカンのお天気!
この日は朝から澤口さん、加倉井さんとともに
新村さんご夫妻(さぶちゃん&みかちゃん)と蟹沢さんに嘉内ゆかりの地めぐりに案内していただいて
お墓参りや當麻戸神社へ。
嘉内の生家からほぼまっすぐ、の境内は空気の澄んだ韮崎のなかでも
さらに清らかな気がして魂が洗われるよう。
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途中で一服したのは韮崎文化ホール前にできた増田珈琲。
富士山ブレンドはとっても美味しい珈琲でした。
今はこのブログを書きながらお土産にいただいた穂坂ブレンドを飲んでいます。
近くだったら通っちゃうよ~♪
増田珈琲FB

途中からはアザリア記念会事務局にて事務局長向山三樹さんも合流し、
じつに貴重な資料を見せていただいたりで
素晴らしい時間を過ごすことができました。

午後1時過ぎのあずさで八王子まではおふたりとご一緒、
三島に出て大岡信ことば館で開催の「ますむらひろし展」を観て帰宅。
充実の旅でした。

お世話になった韮崎のみなさん、
そして澤口さん、加倉井さん、ほんとうにありがとうございました。


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嘉内の生家に植えられていたカリンかマルメロか?(右側の樹)
きっと嘉内が植えたに違いない!と澤口さん、みんなで感動。

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嘉内がよく座っていたという縁側で記念撮影

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韮崎駅前の市民交流センターニコリにある「ふるさと偉人館」

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じつに貴重な資料たち・・・

詳細は加倉井さんの「緑いろの通信」に詳しいので
ご参考に→10月号はこちら




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「花園農村の碑 碑前祭 2015」のお知らせ [催し物]

待ち遠しいと思いつつ、気づけばもう来月に迫ってきました。
今年もやります、碑前祭!

記念講演の講師は盛岡在住のエッセイスト・絵本作家 澤口たまみさん。
岩手大学出身で賢治の嘉内、アザリアの仲間たちの後輩です。
昆虫や小さな生き物への眼差しがとても優しく
生きとし生けるものへの慈愛あふれる素敵な女性。
いつかお会いしたいと密かに、でも強く思っていた方なので
とってもうれしいです。

前回の展示会紹介記事にも書きましたが
著書『宮澤賢治 愛のうた』は
秘められた賢治の恋に光をあて
賢治作品の謎をとく鍵とする画期的な論考。
ほかにもすばらしいエッセイや絵本をたくさん出されています。

みなさまお気軽に遊びに来てくださいね!


花園農村の碑 碑前祭
2015年10月17日(土) 入場無料
◆碑前祭
時間:午後1時30分~
場所:東京エレクトロン韮崎文化ホール前庭
『花園農村の碑』前
韮崎市藤井町坂井205  TEL:0551-20-1155
碑文朗読  ゆかりの方からのあいさつ
保阪嘉内の歌曲「藤井青年団歌」「勿忘草の歌」他
(韮崎市民合唱団)

◆記念講演
時間:午後2時10分~ 場所:東京エレクトロン韮崎文化ホール会議室         
講師 澤口たまみさん
(エッセイスト・絵本作家)
演題 宮澤賢治 愛のうた
~シグナレスとの恋、嘉内への憧れ~


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宮澤賢治 愛のうた (もりおか文庫)

宮澤賢治 愛のうた (もりおか文庫)

  • 作者: 澤口 たまみ
  • 出版社/メーカー: 盛岡出版コミュニティー
  • 発売日: 2010/04
  • メディア: 文庫



★澤口たまみさんのブログ「たまむし日記」→こちら





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「私が友 保阪嘉内 ―宮澤賢治全書簡」と「賢治・愛のうた展」 [催し物]

告知が遅くなりましたが
もう始まっています!!

盛岡の岩手県立美術館で
『特別展示「私が友 保阪嘉内 ―宮澤賢治全書簡」』 が開催中。

宮澤賢治の心友・保阪嘉内への手紙72通が、初めて岩手に里帰りしました。
盛岡は賢治やアザリアの友が青春時代を過ごした街。
大量の手紙の展示はたいへん貴重なことであり、
しかも里帰りとなると、今後はいつ?
ふたたびあるかどうかも難しいのでは。
嘉内のスケッチも展示されます。
6月28日まで。


さらに盛岡では「もりおか啄木・賢治青春館」にて
澤口たまみさんによる『賢治・愛のうた展』 も開催中。

賢治の秘められた恋に焦点ををあて
作品中にたくみに隠された恋人の存在を浮かび上がらせます。
こちらも6月28日まで。

みなさまどうぞ盛岡に足をお運びください!
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