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『ゆうじょこう』村田喜代子 [本]

村田喜代子さんの『ゆうじょこう』(新潮文庫)を読んだ。

明治36年、硫黄島の貧しい漁師の娘・イチが、
父親に売られて十五で熊本の大遊郭にやって来るところから物語が始まる。

過酷な運命の中、懸命に生きる少女たちの姿を描く村田喜代子さんの筆は、
けっしてじめじめとはしていないことが救いである。

随所に挟まれる、イチが女紅場(遊女たちの学校)で書くお国なまりの日記が
彼女の感性と聡明さと健気さを現し、
イチはもとより、読者の心の拠り所ともなる。

男のための社会。
遊女は借金の形に差し出され、
男を喜ばすための技能をたたき込まれる。
それはまだいいほうの楼閣で、
等級の低い貧しい見世では、ただ男たちの欲望のままのおもちゃになり
心身をボロボロにすり減らし、運の悪い者は命を落とす。

福沢諭吉は「天は人の上に人を造らず」と言った人物として
一万円札にも肖像が刷られているが
じつはとんでもない差別主義者だったことを知った。
諭吉が人間として見ていたのは、身分ある家の婦女子のみで、
いかに書を読み博学多才であっても、気品が高くなければ淑女ではない、と。

〈例えば芸妓などと言う賤しき女輩が衣裳を着飾り、酔客の座辺に狎れて歌舞周旋する其の中に、漫語放言、憚る所なきは、(中略)之を目して座中の淫婦と言わざるを得ず〉

〈芸妓の事は固より人外として姑く之を擱き〉

のっけから遊女を「賤しい女輩」と断定し
人間ではないと言い放っているのである。


誰も自ら好きこのんで遊女になった者はいない。


福沢諭吉は、このころ起きてきたストライキを咎め
「国の力をつけるためには、智慧なき貧しい者の言い分をいちいち聞いているわけにはいかぬ」とも言ったらしい。
この構図は、まさに現在進行形ではないか!と背筋が凍る。
今の私達の社会は、明らかに時代を逆行している。

「けれど大きなものばかりを大事と見るのは、国にとっても人にとっても、危ういことではありませんか」と、女紅場の教師である鐵子さんは憤る。
私には一万円札が、忌々しいものに見えてくる。


明治5年には「娼妓解放令」なるものができたが、
横浜にやって来たペルーに娼妓の奴隷売買だと咎められて、
かたちだけの通達をだして取り繕っただけの、実態の無いものだった。
同じ月に「牛馬切りほどき令」と呼ばれる通達がでる。
〈娼妓芸妓は人身の権利を失ふ者にて、牛馬に異ならず。人より牛馬に物の返弁を求むるの理なし。故に従来同上の娼妓芸妓へ借す所の金銀並に売掛滞納金等は、一切債るべかざる事〉

つまりは遊女は牛や馬と同じと言っているのだ。

精神科医・斉藤環さんの「関係する女 所有する男 (講談社現代新書)」という本に
男は妻子を、自分が柵の中で飼っている牛だと思っているのだ、と書いてあったのを思い出す。

女は、牛ではない。
現代では、どんな女性も人間として扱われている?
そうだろうか?
まだまだ、社会は男のものだ、と思う。

折しも、救世軍や婦人団体の運動もあって、娼妓の自由廃業の道が開かれつつあった。
明治37年の暮れ、楼閣の花魁をはじめとするイチたち35人は、
待遇の改善をせまりストライキを起こした末に、ついに見世を抜け出すことに成功する。

イチの故郷の海では
大きな海亀は神様だった。
イチはその夜、その神様とともに裸になって泳ぐ夢を見る。
遊女から、人間の女に生まれ変わったのである。


ゆうじょこう (新潮文庫)


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『荒地の恋』 [本]

ねじめ正一さんの小説『荒地の恋』を読み終えた。

事実をもと書かれたとはいえ、やはり小説、まるごと事実ではないと思うが、実在の詩人たちの人間模様を赤裸々に描いている。詩人たちのことを殆ど知らない私でも、一気に読んでしまうけれん味があった。

主人公は田村隆一、鮎川信夫らと『荒地』を創刊した北村太郎である。
正直、私は序盤の部分、親友・田村隆一の妻・明子と恋に落ち、家族を捨てるところは読んでいてとても辛く、この本を手に取ってしまったことを後悔もした。
身勝手なことをして、妻の心もプライドも踏みにじる。あげくに取り乱し執着するほうが悪者のような描き方。男の目線で書かれた部分に、強い憤りを覚えること数回。
何の落ち度もない妻を、地獄に突き落として許されるわけがない、と。
私のこの反応は、今の自分自身の精神状態も大いに関係はしているのだと自覚はするのであるが。
それでも。
明子が田村のもとに戻ったり、それでも「家族」のような気持ちで気にかけ面倒を見たり見られたり。
それに加えて若い恋人・阿子との愛欲。
後半は半ば呆れて、なぜかしら平常心で読み進む。
様々な人生模様。
親友たちの相次ぐ死、
友が死ぬまで隠し通したもの。
そして、余命3年の宣言を受け、死んでいく北村。

最後の最後で、なぜか私の個人的な深い悩みをあっけなくはじけ飛ばしたのは、
北村太郎の葬儀に現れた阿子に、彼の双子の弟が言った言葉と、
そして、彼女が隠していた「秘密」だった。

妻・治子はどう生きたのだろう。
でも、人生は一度きりなのだ。
結局は「やったもん勝ち」なんじゃないか。
惚れた晴れたで、修羅場をくぐってでも、やりたいことをやってしまった方が幸せ?
どうしようもない心の衝動を、押さえつけて犠牲になって、被害者意識で生きるよりもずっと幸せ?

なんだか悩んで恨んで殻に閉じこもって、うじうじしてきた一年余りが急に馬鹿らしくなってしまった。
(念のため言っておくけど、決して、自暴自棄になったり、好き勝手にして人を傷つけてもよいということではない。)
生きるって、こういうことなのかもしれない。
嫌な目に遭わされてもいいじゃないか。
ひとに迷惑をかけても仕方ないじゃないか。
裡に燃えるものを失って、亡霊のようになってしまっては、自分が一番ソンじゃないか。
幸せってなんだろう。
いいことも悪いことも、いっぱい抱えて、
最後に、ああ楽しかった、そう思って死んでいければ
それがいちばん幸せなのかもしれない。
そんなことを、最後のページを閉じるときに思った。

日曜日の午後、ひとりで買い物のついでに入ったカフェで読了したのだが、
外に出てみると、嵐のあとの青空に、雲が流れている。
そして風はもう、春の匂いがした。

私も、そろそろ冬眠から目覚めよう。



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『超個人的解釈絵本 銀河鉄道の夜』 [本]

保阪嘉内のことを熱心に研究されて
韮崎の「アザリア記念会」を訪ねてくださっている方がいるという話を以前から聞いていました。
大変うれしく思っていたところ、
その方は梅花女子大学大学院のFさんという方で、
このたび彼女の後輩である萩原結海さんが
賢治と嘉内をテーマに『銀河鉄道の夜』の絵本を制作されたとの知らせをもらったのは2月。

さっそく読ませてもらいましたが、とっても素敵な作品でした。
左右対称に同時進行で物語が進んでいくのがいい!
ぜひ多くの方にも読んでもらいたいと連絡をとったところ
「アザリアを知ってほしいというつもりで作ったので、拡散していただけるのでしたらどうぞお願いします。」とのお返事をいただきました。

保阪嘉内のことに興味を持ってくれるひと(しかも若い!)が
こうやっていてくれることはとても嬉しく心強いことです。

萩原結海さんは梅花女子大学 文化表現学部 日本文化創造学科4年。
(四月になってしまったので卒業、あるいは進学されたかもしれません)
これからの活躍が楽しみです。

作品はこちらからご覧いただけます→『超個人的解釈絵本 銀河鉄道の夜』

作品は梅花女子大学の「梅花Web出版」のサイトに掲載されています。

最後にF様、萩原様にお詫びです。
このところ余裕がなくブログの更新が滞っていて
折角快諾していただいていたのにアップがとても遅くなってしまい申し訳ありません。

はえある世界を『ナーサルパナマの謎 宮沢賢治研究余話』入沢康夫・著 [本]

ふと思い立って書棚から取り出してきたこの本、
ほとんど積ん読状態であったものの
もっと早く読むべき本だったことに、驚きと感嘆の思いで読みました。

まずは最初にある
1990年9月に「宮沢賢治学会イーハトーブセンター」が発足した時に
入沢さんが寄せられた「はえある世界を」という文章。

「あの『ポラーノの広場』の若い農夫ファゼーロや牧夫のミーロが夢見たような、そこへ《行って歌へば、またそこで風を吸へばもう元気がついてあしたの仕事中からだいっぱい勢がよくておもしろいやうなさういふ》広場」の役割を、この「宮沢賢治学会イーハトーブセンター」が果たすことになればと、心から願っている。 もちろん、それが実現するためには、これから、多くの試行錯誤や、議論や、努力の積み重ねが必要だろう、しかし、これもやはり「ポラーノの広場」の中の歌にこうある。

 まさしきねがひに いさかふとも
 銀河のかなたに ともにわらひ
 なべてのなやみを たきゞともしつゝ、
 はえある世界を ともにつくらん

「宮沢賢治学会」というものがどのような理念で発足され、
現在に繋がっているかをあらためて思うと
深い感謝とよろこびがあふれます。

校本全集の現在と未来
「間違った本文」からの脱却
「銀河鉄道の夜」の草稿と刊本
どのテキストに依拠すればよいのかー各種刊本の本文の特色と限界を心得ておこう」
自筆・他筆の問題

などは、賢治の生原稿の状態、そこから編まれてきたテキストに関すること、
歴代の全集や校本全集の実態と特色、
校本・新校本全集の方針や校正のルールなどの解説や、それらに対する思いが書かれています。

研究が進んでいないころに(それがたとえ清六さんであっても)
解読ミスや判断ミスなどがあったのは
書いた本人がとうにこの世にいないために仕方のないことです。
その最たる例が「銀河鉄道の夜」の、じつに様々なバージョンの存在だと思います。

「銀河鉄道の夜」の草稿と刊本」のなかで入沢さんは書かれています。

それにしても、ここで急いで言っておかねばならないのは、《それぞれのテクストの編纂者は、いずれも真摯な努力を傾けて、良き本文の決定を目指していた》という点で、各編纂者にとってもこの箇所の《その時点での》最良のテクストとは、まさにこれらの形だったのである。

歴代の研究の積み重ねがあってこそ、現在の研究結果があり
紆余曲折、試行錯誤があったからこそ
ただしい道を見つけてこられたのだと思います。

現在、新校本全集が出来たことによって、ほぼ完璧な形で、
賢治の作品の初期バージョンを含めた一応の完成形と
疑問が生じたときに生原稿の状態が確認できる一字一句もらさない校異を
いつでもだれでも読むことができるのは
ひとえに研究を重ねてこられた方々の真摯な努力の結果であることを
私たちは忘れてはいけないと思います。


それから、私が最も胸に重く受け止めたのは次の二つ、
仮設と実証ー説得力ある論考とは?1」
実りある議論ー説得力ある論考とは?2」
でしたが、
そのなかでも特に重要と思われたことを抜粋してみます。

①自説についての十分な検証
もっとも必要なものは、何が真実で、何が真実でないかをあきらかに見極めたいという、誠実な探求心である。そしてその見極めたものを、(功名心などと関わりのない次元で、)ほかの人々と、隔てなく分かち合いたいという熱望である。

②探求の対象の「レヴェル」
何が本当で何が嘘かをはっきりと言えるものと、言えないものを、混同しないことが特に大切だ。(略)この両者の安易な混ざり合いから、全く無用な議論の空転が起こる例、あるいは、はっきりさせなければならないことが不可知の暗闇の中に放置されたままになる例が、生じてくる。

③先行研究その他への目配り
④影響か?偶然か?
⑤細部にとらわれて大局を見失わないこと

⑥論争の《マナー》
議論が、先行の説に対する批判、もしくは他からの批判に対する反論という形になることは、往々起こることであり、いわゆる《論争》が研究を新しい局面に導く良いきっかけになることも少なくない。賢治研究の歴史においても、あまりにも有名な《「雨ニモマケズ》論争」をはじめとして、いくつもの論争や、論争類似にやりとりが見られた。
ところで、人間は、他からの批判を受けたとき、えてして心の平静を失い、感情的な対応をしがちなものである。批判を完全に理性的に受けとめ、冷静に検討し、適切な反論を展開するということは、決してたやすいことではなく、それなればこそ、《論争》がいつしか罵り合いの《泥試合》に陥り、肝心の議論の当否がそっちのけになってしまうようなケースも時折見られたのである。
(中略)
また、あの「ポラーノの広場」の歌の二番の歌詞には、御存じのとおり

まさしきねがひに いさかふとも
銀河のかなたに ともにわらひ
なべてのなやみを たきゞともしつゝ、
はえある世界を ともにつくらん

とあるではないか。
賢治は、いさかいを否定してはいない。ここが重要なところだ。「それが正しい願いにもとづくものならば、いさかいもやむを得ない」のであり、やがて正しい《実験の方法さへきまれば》、いさかいは解消していくだろう。いさかいは、その《実験の方法》が見付かるきっかけになりうるし、きっかけになることこそ望ましいのである。いたづらな罵言が無意味、いやむしろ有害であるように、中途半端な妥協・馴れ合い・迎合も、研究の進展にとって有害であるだろう。言うべきことは、相手が誰であろうとも、きちんと、説得的に主張するところから、研究の進展は生ずるのである。一方、批判された側も、相手の《正しい願い》の在するところかをすなおにキャッチし、冷静に、謙虚に対応する必要がある。論争は、当事者ふたり(および回りでそれの展開を見守る者たちすべて)の協力による《真実の発見》であってほしい。

⑦資料に振り回されないこと
一つの論考をまとめるに当たって、必要な資料に広く目を通し、それらを十二分に活用するのは、不可欠なことであるが、賢治資料、ことに賢治について書かれた文献資料(伝記的証言、作品解析、その他を含めて)は、その数が非常に多く、しかも、信頼性についても、じつに千差万別であるので、もしそれらへの対応や処理を誤ると、八幡の藪知らずに落ち込んで、議論の説得生がおおいに失われることになる。 資料は、常に参照し、生かして使わなければならないが、それに振り回されてもなわない。

⑧時代相との関わりへの願慮

題名だけ挙げた部分も、じつに大切なこと、参考になることが書かれています。


私はいわゆる“賢治研究者”ではなく、ただの“愛好家”だと思っていますし、
周りにもそのように言ってきました。
でも、このようにブログや一部紙上で思いや自分なりの検証を発表しているのであれば
そこはやはり発言や主張には責任を持たなければならないということ、
人とやりとりをする上で十分に心に留めておくべきことだと強く感じました。

これから少しでも研究に携わろうと考えている人や
私のように愛好家であっても何らかのかたちで発表しようという人には
一読しておいてもらいたい、
というか、必ず読むべき一冊だと思います。


→『ナーサルパナマの謎 宮沢賢治研究余話』入沢康夫・著 (書肆山田)2010年9月30日発行

境界線に立つもの~『物語ること、生きること』上橋菜穂子・著から思うこと [本]

たまたま立ち寄った書店で、面陳列されていた上橋菜穂子さんの『物語ること、生きること』(講談社)を手に取り、衝動買いをしました。
実は上橋さんの作品は読んだことがないのですが
以前、アニメで『獣の奏者エリン』を娘と一緒に見ていたので
その作者だということは知っていました。

予想通り、イギリスのファンタジーに深く通じている方でした。
『ゲド戦記』のル・グィン、
『グリーン・ノウの子供たち』シリーズのルーシー・M・ボストン、
『時の旅人』のアリソン・アトリー、
『第九軍団のワシ』のローズマリー・サトクリフ等々、
私の好きな作品が次々と出てきて懐かしく、そして嬉しく。

この本に「境界線の上に立つ人」という節があります。
ものごとの両側が見えるからこそ、どちらにも行けない哀しみ。
どちらか一方の側から見ただけでは、見えない景色を見ている人。
だからとても孤独だし、人から理解されないこともあり、
結論めいたことも言えず、それでもじっと考え続けている人。
上橋さんはそういう人に惹かれるし、自分もその景色を見てみたいのだと書いています。

どちらにも行けない哀しみというのは、とてもよくわかります。
両側の世界が見えていたかといえばそんなことはなかったのですが
私には、特に思春期の頃から、どこにいてもどこにも属せない感がつきまとっていました。
そしてその孤独感に寄り添ってくれたのがある時出会った宮澤賢治というひとだったのでした。
やっぱり賢治は、両側が見えてしまう人だったのではないでしょうか。

私には幸い、賢治という人がいてくれた。
でも、賢治はどうだったのか、
その孤独をどうやって癒やしたのか…
ヨタカの哀しみはどこにも属せない哀しみ。
車を運転中になんとなくそんなことを考えていたら、
涙で前方が見えなくなりそうになってあわてました。


スター・ウォーズにでてくる「フォース」にも
「ライトサイド(光明面)」と「ダークサイド(暗黒面)」があります。
世界ははっきりと2分できるほど単純ではなく、
くるくると相対的に入れ替わったり絡み合ったりしているものだろうと思います。

それらが見えたとしても自分の立ち位置で割り切ってしまえば楽かもしれないけど
それができないひとだと、さぞ生きづらいに違いない。
そして賢治はそういうひとだったのではないでしょうか。


「壁を越えてゆく力」という節の最後の部分が心に響きます。

《もしかしたら「生きる」ということ、それ自体が、フロント=最前線にたつことなのかもしれない、と思ったりします。それぞれの生い立ちや境遇や。すごくいろんなものを抱えて、私たちは、いま、出会っている。誰もが自分の命の最前線に立っているのなら、それぞれに境界線を揺らす力、境界線の向こう側に越えてゆく力を持っているのんじゃないか。
相手を否定したり、恐れたり、あるいは自分の領分を守るために境界線を強くするのではなく、境界線を越えて交わっていこうとする気持ちを持てたら、どんなにいいだろう。
私は、それを、子どものころからずっと願い続けてきたように思うのです。
そして、私の好きな物語に、もし共通点のようなものがあるとしたら、それは背景の異なる者同士がいかにして境界線を越えていくかを描いているところかもしれません。》


無意識と意識、夢と現実。
本来、すべてを含めた世界に人は生きるはずです。
ところが意識と現実だけしか見ようとしなければどんどん歪みが生じていく。
それが現代社会の姿だと思います。
「ファンタジー」は目に見えない大切なものを呼び覚まし
両者をつないでくれるものだと思います。

私にとって、どんなハウツー本や教訓本よりも
生きることを教えてくれるのがファンタジー。
じつは私が本を読み出したのは大人になってからなのです。

ルーシー・M・ボストンが『グリーン・ノウの子どもたち』で作家デビューしたのは
彼女が62歳の時。

トールキンの『ホビットの冒険』で、
めんどくさがりやで小心者のビルボが居心地のいい家をえいっと飛び出し
長い長い指輪をめぐる物語が始まったように
いくつになっても、「その一歩を踏み出す勇気を」!


『雨ニモマケズ手帳』と『遺書』 [本]

『雨ニモマケズ手帳』が、発見されたのは
東京新宿のモナミで開催された
第1回「宮沢賢治友の会」のときだったといわれています。

永瀬清子さんは「『雨ニモマケズ』の発見」として
『宮沢賢治研究』11号(宮沢賢治研究会、1972年)に、
「この手帖がこの夜のみんなの眼にはじめてふれた事については疑いがないように私は思う」
と書かれています。


でも、そういえば確か、賢治が父母と弟妹にあてた遺書も一緒にポケットに入っていた、と
清六さんは『兄のトランク』に書かれていました。

う~ん、永瀬さんの文章には遺書のことなどどこにもなかったようだし。
もし「宮沢賢治友の会」で遺書が見つかっていたら、
ものすごく注目されるし話題にならないはずはない…?

そこで、「積ん読」状態だった小倉豊文さんの
『「雨ニモマケズ手帳」新考』(昭和53年・東京創元社)を
ひっぱりだして読んでみたら解決しました。

清六さんが「宮沢賢治友の会」のためトランクを出してきて掃除していたとき
裏蓋のポケットに、『雨ニモマケズ手帳』が入っているのを見つけた、
それをそのまま持って上京し、皆に披露。
その後、花巻に帰って、再び清六さんが手帳を取り出したりしたとき、
裏蓋に密着していたのかそれまで気づかなかったハトロン紙の封筒2通を発見した。
これが『遺書』だった、ということらしい、と。
なるほどー!

奇しくもその『遺書』は、昭和6年9月21日、ちょうど亡くなる2年前の日付、
神田駿河台の八幡館で発熱、死を覚悟してしたためたもの。

一通は「清六様」、もう一通は「父上様 母上様」とあり
いずれも便せんは八幡館という旅館の名前が刷り込んであるものでした。


《清六様》

たうたう一生何ひとつお役に立てずご心配ご迷惑ばかり掛けてしまひました。

どうかこの我儘者をお赦しください。

                      賢治

   清六様
   しげ様
   主計様
   くに様


  《父上様 母上様》

 この一生の間どこのどんな子供も受けないやうな厚いご恩をいたゞきながら、いつも我慢でお心に背きたうたうこんなことになりました。今生で万分一もついにお返しできませんでしたご恩はきっと次の生又その次の生でご報じいたしたいとそれのみを念願いたします。

 どうかご信仰といふのではなくてもお題目で私をお呼びだしください。そのお題目で絶えずおわび申しあげお答へいたします。

      九月廿一日
               賢治
    父上様
   母上様

写真集『イーハトーブ・ガーデン ー宮沢賢治が愛した樹木や草花』 [本]

インターネットを始めたとき、
真っ先に「宮沢賢治」に関するサイトやブログを探したものですが
その中には素晴らしいものがいくつかあって
それらを毎日のように見るのが楽しみになり、
いまでもそれは続いています。

そのうちのひとつがネネムさんの『イーハトーブ・ガーデン』。
主にイーハトーブ(=岩手)に出かけて撮影された
賢治の作品等に登場する植物を載せておられます。

美しい写真に添えられた賢治作品の一節とネネムさんの解説は端的明快、
まるで賢治の植物図鑑。
さらには植物だけでなく鳥類にも詳しい。
(共著で『賢治鳥類学』(新曜社)という本も出されています)

このたび、写真集を出されたと知り
不躾を承知でブログ経由でお願いしたところ
早速快く送って頂きました。

ihatov garden.JPG

このように本になってみると
パソコンとはまた違った良さがあり
より写真の美しさが際立っていたり
じっくりと手にとって静かに鑑賞できることもあり
賢治の言葉も、ネネムさんの解説も、より心にしみわたってくる気がします。

いいなぁ、すてきだなぁと眺めながら
スズラン(鈴蘭)のページにきたとき
小さなコロンとした花の列から
コロコロチラチラと可愛い音が聞こえてきたような気がしてはっとしました。

そう思って見てみると
花や実や葉の全てが
リズムを持って息づいているよう。
シダレヤナギの葉のくるりくるりとした様も
ウドの放射状の花もみな、音楽を奏でているようです。

ヌスビトハギのうふふと笑いのハミング
ノバラの赤い実と小枝の小さなマーチ
めくらぶどうの静かな祈りの歌…

なんてなんて美しい世界。
ああ、賢治はこんな美しい世界を私たちに教えてくれていたんだと
ネネムさんが写真として現してくれたことで
その世界の素晴らしさを再確認させられ、
かつその深さを思いしらされました。

あとがきには「賢治と会話しながらシャッターを押し続けた」とあります。
そうです、これらは賢治と話すことができる人だけが撮れる写真。

そんなことを感じながら
またページを開くと、涙がながれるのを止められません。

単なる植物図鑑とは違う、
イーハトーブの光と風がつまった写真集。
植物たちが生き生きと、息づいている世界を
どうかたくさんの方にも覗いてみて、そして旅してもらえたらと思います。


『イーハトーブ・ガーデン ー宮沢賢治が愛した樹木や草花』  文・写真 赤田秀子(コールサック社)

※ネネムさんのブログ→〈イーハトーブ・ガーデン〉

こちらもお薦め→『賢治鳥類学』
賢治鳥類学


梨木香歩さん『きみにならびて野にたてば』 [本]

角川書店の「本の旅人」という冊子に昨年から連載されている
梨木香歩さんの『きみにならびて野にたてば』を毎月楽しみに読んでいます。

菅原千恵子さんの『宮澤賢治の青春』に感銘を受けた梨木さんが、
保阪嘉内の次男・庸夫さんのお宅に何度も取材に訪れ
10年近くを経てようやくこの連載が始まったようです。

先日届いた最新号の3月号は衝撃的でした。
驚きと、共感と、義憤と、恐れと、期待…
さまざまな感情が渦巻くような、いてもたってもいられないような。

保阪庸夫さんについて書かれるとき、梨木さんの庸夫さんへの想いがほとばしる。
うんうん、そうそう。
私にもよくわかる。

取材の中で、保阪家の、つまり嘉内が持っていた『アザリア』にまつわるある事件のことを知り
梨木さんはその解決の糸口がご自身の思春期のある体験と繋がっていることに気づいたそうです。
事件とは、『アザリア1号』が、かつてある人物によって持ち去られたこと。
体験とは、その人物が中心になり出版された文学誌『UR.』を、かつて愛読していたこと。

連載第1回目の2012年10月号は
ほぼ全部がこの『UR.うる』という文学誌に関することであり
「この文章は、特定の人物を糾弾するために始めるものではない。」
とのことわりがかかれてあります。
そして若き日に梨木さんがその本との出会ったころのこと、
その本の目次、
その本をとりまとめているらしい人物の巻頭言。
しかし、私はこの号に書かれていることの意味が
よくわかりませんでした。
3月号の第6回を読むまでは…!

実はこのブログ記事を書きかけていたとき
思い立って古書でみつけた『UR.うる』。
説明ではvol.3となっているけど出版年からするとこれではないのか、と取り寄せてみました。
開いてみると確かに!
まさに目次はそのとおりです。
ああ、アザリア創刊号を保阪家から持ち去ったのはこの人か!

「この文章は、特定の人物を糾弾するために始めるものではない。」
その人物こそ、『きみにならびて~』では「林昇順」、
実際の『UR.うる』では……
果たしてここに書いていいものかどうか。
梨木さんがわざと名前を変えてあるということは
何らかの意味があるのかもしれません。
私もあえて名を伏せることにしましょう。

しかし、その人物を知っている人ならすぐわかるはずです。

「連載に踏み切った背景には、こうして少しずつでも、発表していくことで、当時を知る人々からの情報、そして探しても所在のわからないかった登場人物から連絡がくるかもしれない、という期待もあった。」

こう梨木さんが巻頭で記したとおり、
どこからか、誰からか、なんらかの情報が寄せられることを
私も切に願って、この記事を書いています。

賢治と嘉内の友情の証と軌跡を索めて庸夫さんのもとに来る人は多くても
庸夫さんが父・嘉内と賢治から受けとめてしまったものの重さ、すさまじさを
また同じように庸夫さんから受けとめた人は少ないだろうし、
ましてや父・嘉内の書き込みがいっぱいある『アザリア1号』が失われたことの身を切るほどの痛みを
穏和な庸夫さんの表情や身振りから見逃さずに感じ取って
我がことのように胸を痛める梨木さんとはいったい…。
とてつもない人だと驚いています。

UR.うる.JPG

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電子書籍でも無料で手に入ります→電子書籍 

佐藤竜一さんの本『黄瀛―その詩と数奇な生涯』『灼熱の迷宮から』 [本]

昨年に読んだ本なのですが
なかなかアップできずにいました。
佐藤竜一さんが書かれた2冊です。

1冊目は『黄瀛(こうえい)―その詩と数奇な生涯』(日本地域莢会研究書)

黄瀛(こうえい)―その詩と数奇な生涯


中国人を父に、日本人を母に持つ詩人黄瀛(こうえい)の生涯。
賢治との接点は、草野心平の同人誌『銅鑼』で
賢治の10歳下でした。

北海道旅行の折りに花巻に病床の賢治を訪ねています。
1929(昭和4)年のことでした。
「私は宮沢君をうす暗い病室でにらめ乍ら、その実はわからない大宗教の話をきいた。とつとつと話す口吻は少し私には恐ろしかつた。」(「宮澤賢治追悼」昭和9年)

以前、どこかでこの文章を読んだ記憶がありました。
この中国名をもつ詩人とはいったいどんな人だったんだろうかと
なんとなくそう思っていたのですが
この本に出会ってその生涯を知ることができました。

言葉にハンディを持ちながらも、ものおじせずその人なつこい性格から
草野心平や高村光太郎をはじめ、
男女を問わずたくさんの知人・友人がいた黄瀛も
ひたひたと押し寄せる時代の影からは逃れられず
迷った末に父の国である中国に行く決心をしました。

日本人として生きてきたにもかかわらず周囲からは日本人とは認められない、
果たして自分は日本人か中国人か。
二つの祖国の間で時代の波に翻弄されながらも生き抜いた黄瀛。
戦争と文化大革命は、その渦中にある者にとってどれほど過酷なものだったことか。

他国の情勢のことなど少しも知識も興味もなかった子供の頃、
それでも「4人組」とかニュースで伝えられていたことは覚えています。
でも中国の近代の姿を知ったのはずっと大人になって
『大地の子』(山崎豊子)と『ワイルドスワン』(ユン・チアン)という本を読んでからです。

1984(昭和54)年、半世紀ぶりに日本に帰国した黄瀛。
1996(平成8)年の賢治生誕100年には、花巻にて、賢治について講演もしています。

講演の内容を知りたいと思っていたところ
どうやらイーハトーブセンターの『国際研究大会記録』に収録されているようです。


2冊目は『灼熱の迷宮から』。

灼熱の迷宮から。―ミンドロ島から奇跡の生還、元日本兵が語る平和への夢


フィリピンのミンドロ島に特攻隊員として上陸し
戦後11年に及ぶ潜行生活の後、帰国が叶った岩手出身の中野重平さんという方への
聞き取りによって生まれた本です。
ルバング島で戦後約30年も一人で生き抜いてきた小野田寛郎さんは有名ですが
数人の共同生活もまた、それはそれで苦労があったと思います。
諍い、疑い、仲間割れ、原住民との戦いと交流、
それでも知恵と工夫、歩み寄り、協力、信頼を得て
共に過酷な環境を凌いできた。
彼等が帰国できるとなったとき、
隣のルバング島の小野田さんを救出するよう要請があったそうですが
状況を把握できていない小野田さんと対峙するのは危険が伴うとのことで見送ったそうです。
つまり、小野田さんはその存在を知られてからも
20年以上もたった一人で生きてきたということで、それもまた悲劇です。

中野さんたちが島での過酷な生活に耐え抜いたことも凄いことですが
やはり帰国後、家族や知人との再会の場面が胸に迫りました。


最初はこの2冊の重要な共通点に気づかずにいたのですが
『灼熱の迷宮から』は勿論、『黄瀛(こうえい)―その詩と数奇な生涯』も
戦争の犠牲となり
時代に翻弄されたということです。

戦争さえなければ、青春を謳歌し好きなことをやりとげ
多少の波風はあっても平穏な人生を送れていたに違いないのです。

ちかごろは、これを遠い過去のこととして
平和の上にあぐらをかいてはいられないようになってきました。
特に戦後生まれのわたしたちには
まるで他人事にしか感じられないことが
いつ現実になってもおかしくないことを覚悟し
もっと危機感をもち、人任せにせず
目を見張り耳を澄ましていかなくてはならないのです。
まさかこんな時代が再び来るとは誰が考えたでしょうか。
人間は学ばないのでしょうか。

いったい何のための、誰のための国家か。
歴史は暗記するだけのものではなく
お伽噺でもないのですから。

魂の行方~『白い人たち』F.H.バーネット [本]

バーネットといえば『秘密の花園』や『小公女』、『小公子』などで知られる作家ですが
このあまり知られていない『白い人たち』という本をみつけ
題名と帯の言葉に惹かれて読んでみました。

読んでいる最中、私はずっとこんな本を読みたかったのだ、という気がしていました。

少女イゾベルには死者の魂が見えます。
といっても決して幽霊話や怪談ではなく
生きるとはどういうことか
「わたし」とは何かということが
この不思議な物語を通して語られているのです。

ここに在ることのよろこび。
そして他者の魂と通じ合える幸福。
それこそが生きるよろこびであり
存在することの意味なのかもしれません。

「わたしたちが偶然に起こるんだとか、たまたま起こったんだ、というふうに考えている事柄はすべて、生命の営みという織物の一部であると言ってもまちがいではない、と今のわたしは思っています。このことに対して本当にそうなのだろうかと疑問を抱きながら、こまかく観察してみれば、数々のささいな物事がそれたどうし関係し合いながら、結局はちゃんとした理由や意味につながっているらしい、ということも何となくわかってくるのです。ただ、わたしたちはまだ、そのことを明確に理解できるほどには賢くないんだと思うのです。偶然なんていうものはないのです。わたしたちはどんなことでも、自分たちで引き起こしているのですー悪いことが起こってしまうのは、わたしたちが、自分はまちがっているのか、それとも、正しいのかということがわからないからですし、または、そういうことをいいかげんにしておくからです。正しいことが起こる場合は、わたしたちがー無知のなかで生きていながらもー無意識のうちに、または、意識的に正しいものをえらんだからなのです。」

イゾベルの口を通して、バーネットは
『奇跡』などというものはなく、人々がまだ考えてみたことも、
認めたこともない神の法則が働いた結果としておこったものだ、と語ります。

確かにそうにちがいありません。
いいことも悪いことも、向こうからやってくるわけでは決してないのです。
それを自覚してこそ、自分の人生を生きることができるのではないでしょうか。

また、人が誰でも抱く『死』への恐怖に対しても
イゾベルはそのようなものは一度も抱いたことがなく
それはある時見た「夢」の助けによるからだといいます。

それは、ある夜、何のまえぶれもなく
それまで見たこともないようなやわらかく美しい月明かりのなか
丘の斜面の草の上に裸足で立っていた夢で
そのときに感じた無上のよろこび、幸福感…
「ー夜や空や溶けていくみごとな影の美しさをみていたのではありません。わたし自身がそれらの一部分だったのです。それらとひとつになっていたのです。わたしは何にもささえられていませんでしたー何もわたしをささえてはいなかったのです!月夜の美しさ、月光、空気がわたしそのものだったのです。そのことからくる無上のよろこびに、わたしはただもう、胸をぞくぞくさせながら夢中になり、また、おどろいているだけだったのです。」

自分はすべての一部であり
すべては自分なのだと感じることは
「魂」そのものを感じることであり、
イゾベルは、自分がどこから来たのでも、どこへ行くのでもない、
ということを覚ったのではないでしょうか。

死んだら何もなくなって終わりなのだという人がありますが
わたしにも、以前からなんとなくそうとは感じられないのです。

生まれ変わりがあるかどうかはわかりませんが
自分はすべての一部であり
すべては自分なのだとわかれば
イゾベルのように何も怖いことはないような気がします。


物語の最後は深い哀しみの中にあるにもかかわらず、
不思議にも澄み切った幸福感で満ちています。
なぜなら、イゾベルはいつも彼の魂とともにあることを知っているからです。


「いったい、何があたりまえで、何がそうではないのでしょうか?人間はまだ、自然の法則のすべてを学んだわけではないのです。自然というものは壮大で、豊で、終わりのないものであり、それ自身について新しいと思えるようなことが書き記された巻き物をいつもわたしたちの前に広げて見せているのです。書き記されていることは、実は、新しいことではないのです。それは、いつもそこに書き記されていたのです。でも、それが読み解かれることはなかったのです。破られた法則はひとつもありませんし、新しい法則というものもありません。ただ、通常よりも強力な目で読まれ。発見される法則があるだけです。」
「意識を持ったひとつの力である人間は、他のあらゆるもののなかでも、人間こそは。まだぜんぜん探求されていない存在であることにまったく気づいていないのです。」
「わたしたち人間はー自分自身について奇妙で頑固なうぬぼれを抱いているおろかな連中なんです。」
「自分たちは完全だと思っているんですよ、わたしたちは」

バーネットが100年後の地球と人類の姿を危惧していたかどうかはわかりませんが
ひとりでも多くの人に
人間とは何か、
わたしたちはなぜここにいるのか
何のために生きるのか、ということをこそ探求してもらいたいと願ったことでしょう。


「わたしはすべての一部であり、すべてはわたしである」
「ここにあった魂が、わたしたちの感知できない空間に移っただけである」
賢治とあまりに共通する感覚に
驚きながら読んだ一冊でした。

この本に出会えたことで、私は、
この先にどんな別れがあろうとも
まえよりもずっと、淋しくはないのです。
いえ、淋しいにちがいないのですが
ともにあることを感じることができるのです。

「僕もうあんな大きな暗の中だってこわくない」 と思えること、
それは幸せなことです。

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