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生命の灯・・・『春と修羅』序 [思うこと]

友人の紹介で、有機土壌による家庭菜園と取り組んでいるHさんと知り合った。

既成概念を取り払い、
有機土壌・無農薬・減農薬で
小さなスペースでも有効に活用して誰でも簡単に野菜やハーブ、花を育てることができる。
たとえコンクリートの上でも。
屋上でも大丈夫、

15年以上前、自己流で庭で野菜を作っていた。
ハーブや薔薇もいっぱい育てた。
ところが下の子を身ごもり、つわりがひどくなって
夏には水やりどころではなかったため、全部がダメになってしまい
その後はすっかりやる気をなくしてしまっていた。
仕事が忙しくなったこともあるが・・・。

この機会にまた野菜作りを再開してみようと思う。
やっぱり、自分たちが食べるものは安心安全なものがいい。

そのHさんというのは、とても面白い方で、
もとはゼネコンの大会社にいて、海外で空港をつくったり
高速道路をつくったりしていた方。
今も大きな仕事も手がけるが、仕事の一環で培った環境整備のノウハウを活かして
小さなことにも取り組んでみえる。
話をいろいろ伺うと、こちらのほうはほとんどボランティアみたいなもののようだ。
基本は2メートル四方の菜園だが、これを作りっぱなしではなく
講習会やネットワーク作りのほうがどちらかといえば目的のような感じ。

紹介してくれた友人夫妻もユニークで素敵な方達だが
世の中にはじつに面白いひとがいるものなんだと、楽しくなる。
こんな方がいるのだから、人生すてたもんじゃないと思える。

さて、そのHさんが、命について語ってくれたこと。

地球誕生は60億年、生物誕生35億年前、植物誕生3億5千年前。
人類はたった数百万年前。
しかし、その「命」というのは生物が誕生してから脈々と受け継がれてきたものであり
今生きているものはすべて、みな、同い年。

最初に聴いたときには意味が良くわからなかったけれど、
オリンピックの聖火にたとえられたとき、すとんと腑に落ちた。

「灯」はトーチからトーチへ受け継がれていく。
命というのはその「灯」のようなもの。
一番最初に誕生した生物の灯。
それが次に次にと受け継がれて
数が増え、進化し枝分かれして現在に至る。
でもその灯は受け継がれてきたものであり、
つまりは全ての生き物の命は同級生である。
あなたの命も、私の命も、ほんとうは同じ命。

私の命は私だけのものではなく次へと受け継がれる炎。
私が死んでも私の命は受け継がれていく。
子孫を残すことだけが命のバトンではない。
私が生き物のからだを食べると私の命に変わる。
私が死んで土に還ると微生物や植物のからだに変わる。

私はこの宇宙とともに、生きている。

そうか!と納得できたとき
思い出したのが賢治の言葉だった。

  (すべてがわたくしの中のみんなであるやうに
   みんなのおのおののなかのすべてですから)


つまり、詩集『春と修羅』の序の冒頭は
これとまったく同じ事を言っている、と。


  わたくしといふ現象は
  仮定された有機交流電燈の
   ひとつの青い照明です
  (あらゆる透明な幽霊の複合体)
  風景やみんなといつしよに
  せはしくせはしく明滅しながら
  いかにもたしかにともりつづける
  因果交流電燈の
  ひとつの青い照明です
  (ひかりはたもち その電燈は失はれ)


トーチは失われてしまうが
その灯はたもちつづけられる。

「青森挽歌」にある

  みんなむかしからのきやうだいなのだから

という言葉も実感できる。

賢治は、長い長い時間をかけて脈々と受け継がれてきた命のことを記したのであり、
それらはつまりは一つに繋がっていることを感じていたのだ。
人も銀河も修羅も海胆も、おなじひとつの命である。



『春と修羅』



わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといつしよに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
(ひかりはたもち その電燈は失はれ)

これらは二十二箇月の
過去とかんずる方角から
紙と鉱質インクをつらね
(すべてわたくしと明滅し
みんなが同時に感ずるもの)
ここまでたもちつゞけられた
かげとひかりのひとくさりづつ
そのとほりの心象スケツチです

これらについて人や銀河や修羅や海胆は
宇宙塵をたべ または空気や塩水を呼吸しながら
それぞれ新鮮な本体論もかんがへませうが
それらも畢竟こゝろのひとつの風物です
たゞたしかに記録されたこれらのけしきは
記録されたそのとほりのこのけしきで
それが虚無ならば虚無自身がこのとほりで
ある程度まではみんなに共通いたします
(すべてがわたくしの中のみんなであるやうに
みんなのおのおののなかのすべてですから)

けれどもこれら新生代沖積世の
巨大に明るい時間の集積のなかで
正しくうつされた筈のこれらのことばが
わづかその一点にも均しい明暗のうちに
  (あるいは修羅の十億年)
すでにはやくもその組立や質を変じ
しかもわたくしも印刷者も
それを変らないとして感ずることは
傾向としてはあり得ます
けだしわれわれがわれわれの感官や
風景や人物をかんずるやうに
そしてたゞ共通に感ずるだけであるやうに
記録や歴史 あるいは地史といふものも
それのいろいろの論料データといつしよに
(因果の時空的制約のもとに)
われわれがかんじてゐるのに過ぎません
おそらくこれから二千年もたつたころは
それ相当のちがつた地質学が流用され
相当した証拠もまた次次過去から現出し
みんなは二千年ぐらゐ前には
青ぞらいつぱいの無色な孔雀が居たとおもひ
新進の大学士たちは気圏のいちばんの上層
きらびやかな氷窒素のあたりから
すてきな化石を発掘したり
あるいは白堊紀砂岩の層面に
透明な人類の巨大な足跡を
発見するかもしれません

すべてこれらの命題は
心象や時間それ自身の性質として
第四次延長のなかで主張されます



     大正十三年一月廿日
                              宮沢賢治

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コメント 2

青蜩庵主人

 久しぶりにお邪魔します。ブログを新しくしてから、こちらとリンク出来ていなかくて、なかなか開けなく申しありませんでした。
 
 本当に納得のいく「命のバトン」のお話です。
 前には盛んにやっていた「春と修羅」の序、今年はあらためて向き合おうと思います。

 2月2日が迫ってきました。よろしくお願い致します。
by 青蜩庵主人 (2014-01-31 13:28) 

signaless

青蜩庵主人様

訪問ありがとうございます!

賢治は当時ハイカラだったであろう電灯に例えましたが
受け継がれていくものと考えればランプやトーチの灯のほうがしっくり来ますね。

でも、電灯は失われても光は保ち続けられる…それは星の実態が消えてもその輝きは時空を越えて私たちに届くのと同じ、ということもあるのですが。
賢治は不思議な存在で、どこまで追いかけても興味がつきることがないです。

いよいよですね、楽しみにしています。

by signaless (2014-01-31 17:49) 

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