SSブログ

「宮澤賢治 面会来」の斜線の意味は? [思うこと]

嘉内が大正10年につけていた『国民日記』。
『国民日記』というのは当時売られていた日付が印刷された既製の日記帳のようです。

この日記の7月18日のページは左上から右下への斜線が一本ひいてあり
ページ中央の上半分まであたりに縦書きで

   宮澤賢治
     面会来

と書かれています。

その前後のページはこうです。

  16・17日それぞれ何も書かずに大きくバッテン。
  18日「宮澤賢治 面会来」に斜線。
  19日一行に一言ずつのメモ書きのような言葉が並ぶ。意味はよくわからない。
  20日何も書かずに大きくバッテン。
  21日バッテン。右端に「林と道玄坂下に会ひ/コーヒを吸ふ」
  22・23日何も書かずに大きくバッテン。
  以下白紙。


前日の16・17日のページには何も書かれておらず大きくバッテンがしてあり、
18日の分にだけ斜線が片方しかない意味は…?
16,17日とバッテンを引いてこの日も何もなかったと片方斜線をひいたところで、
賢治と会ったことを思いだして途中で止めた、とも考えられます。
そしてその上から「宮澤賢治 面会来」と書いたのかもしれません。

7月21日のページにはバッテンがあり、その右端に線を避けるように
 「林と道玄坂下に会ひ/コーヒを吸ふ」
とあります。
これも、バッテンをした後で思い出して
後で書き加えたようにも見えるのです。

『宮澤賢治 友への手紙』保阪庸夫・小澤俊郎(筑摩書房)P184には
「ページいっぱい、大きく書いた七字を、一本の斜線で抹消している」とあります。
しかし、けっしてページいっぱいに“宮澤賢治 面会来”と書いてあるわけではないのです。

果たして
文字を書いてから斜線をひいたのか
斜線をひいてから文字を書いたのか。
…全く意味が違ってきますよね。

仮に、賢治と訣別したために斜線をひいたというのであれば
大きなバッテンをされた「林」という人とは
いったい何があったのだろう?ということになりはしませんか。
私の疑問が間違っているのでせうか?

ところでこの、嘉内と一緒に珈琲を飲んだ「林」という人。
この人については次回へつづく…。

賢治と密教と性 [思うこと]

近頃密教に興味があり
関する本を少しずつ読んだりしています。

「密教」とは何か。
私の浅はかな知識ではうまく説明もできませんが
Wikipediaではこうです。→「密教」

空海のことは今までほとんど知りませんでしたが
知れば知るほど不思議な面白い人です。
(立派な僧をつかまえて面白いなんていうと罰が当たるでしょうか?)

同じ時に最澄とともに遣唐使として唐に渡りますが、
すでに高名な僧であり確固たる地位を築いていた最澄に対し
空海は当時ほぼ無名で留学生としてその地を踏みます。
しかし、最澄が「密教」を一部しか学んで来なかったのに対し
空海は、長安青龍寺の恵果から密教の真髄を授かって
20年の留学予定を大幅に短縮し2年で帰国したといいます。

それ以前の空海は、野山を彷徨しつつ修行をしていたとか。

そして洞窟で虚空菩薩求問持法をしていたとき
明星が口の中に飛び込むという神秘体験をしたといいます。

賢治もひとり野山を歩き回っています。
不思議な体験もしたようですし
自然の中に身を置くことでインスピレーションを得ていたと思います。

おそらく空海も賢治も
同じような感覚の持ち主だったのではないかと思います。

賢治を超能力の持ち主とか聖人とかいうつもりはないけれど
あきらかに一般の人とは違う感覚を持っていたと思う。

さて、密教とは、
言葉で伝えることのできる教えに対し
言語では表現できない仏の悟り、凡夫の理解を超えているものだといいます。
後期密教では性をヨーガとして修行に取り入れてもいる。
おそらく正統な密教では、それらは瞑想として行われたものに違いないですが
先の恵果が、弟子の僧の中でもその奥義を伝えるものを選んだ(つまり選ばれたのは空海)というのは
非常に危うい面を持っているためでしょう。

賢治は法華経の信者で特に日蓮に傾倒していた、といいますが
密教を知るにつれて、賢治と密教の繋がりはないのだろうかという
疑問が沸いてきました。
そもそも、文語詩「早春」の

  わが索むるはまことのことば   雨の中なる真言なり

という言葉からその疑問は始まってはいるのですが。


賢治は生涯独身を通しましたが
春画を見せられたとか
性教育をうけたとかいう証言もありながら
どうも基本的には、女性には指一本触れたことがなく
賢治自身は性を否定していた、清い人であった、などといいう賢治像が
根強く残っているような気がします。

そもそも賢治が性を否定していた、というのは
賢治の身近にいた人々の証言の一部。
ではその春画や、「一関の花川戸という遊郭へ登楼してきたといって、ニコニコ笑って話しました」という岩田豊蔵の証言はどうなるのだろう?
冗談、あるいは常人を装うための方便?

確かに禁欲的な生活をしていた時期もあったのでしょうが
生涯そうだった、と言い切るのは違うような気がしてきます。

「草や木や自然を書くようにエロのことを書きたい。」
と森荘已池に語ったらしい。

「おれは、たまらなくなると野原へ飛び出すよ。雲にだって女性はいるよ。一瞬のほほえみだけでいいんだ。底まで汲みほさなくてもいいんだ。においをかいだだけで、あとはつくり出すんだな―。」と語ったのは藤原嘉藤治に対して。

賢治は決して性を否定してはいなかった。
人に優しく自分に厳しかったのかというとそうでもないと思う。

むしろ逆に、性にはおおらかで肯定的であり、ある一時期において
禁欲的な生活をしていたことがあると言ったほうがよいのではないでしょうか。

もし賢治が、自身を健康で長く生きられると思っていたのなら
普通に結婚もしただろうし、子供もつくっていたはずだと思うのです。

そして「雲にだって女性はいるよ。…」ということの意味は、
性を我慢すべきであり、代償で満足すべきだということではなく
まさに密教でいうヨーガ(瞑想)で得る境地のことではないのでしょうか。

それは同じように見えて
全く違うことだと思います。

おそらく賢治は、そのような境地に到っていたか
それを目指していたのではないでしょうか。

そんなことを考えて
ネットで賢治と空海の接点をしらべていたところ
この記事を見つけました。

岡澤敏男さんの〈賢治の置土産~七つ森から溶岩流まで〉150 
こちら→「塔中秘事」の元像

賢治が長生きしていたら
どんな宗教論・芸術論を展開していただろうかと想像は膨らみます。



今日は何が書きたかったかというと

①賢治は法華経だけでなくじつは密教にも重きを置いていて
特に神秘に関しては大いに通じるものがあったのではないか。

②賢治は決して性を否定してはおらず
むしろおおらかに受け入れ、神秘的で神聖なもの或いは悟りの境地のひとつとして
捉えていたのではないか。

③それらのことを理解するものが
身の回りにはなかなかいなかったため、賢治の意志や想いとは別の
賢治像がつくられ伝えられてしまったのではないか。

そのように考えてみると
賢治作品にちりばめられている言葉やことがらも理解しやすいし
性に関しての言動も、これまでどうにも腑に落ちなかった部分が
やっと見えてきた気がするのですが・・・どうでしょうか。

賢治の願い [思うこと]


昭和8年8月30日付けの伊藤与蔵あて書簡〔484a〕

「しかしもう只今ではどこへ顔を出す訳にもいかず殆ど社会からは葬られた形です、それでも何でも生きている間に昔の立願を一応段落つけやうと毎日やっきとなってゐる所で我ながら浅間しい姿です。」

亡くなる20日前に書かれたこの手紙は
「羅須地人協会」に出入りしていたメンバーの一人で
当時ははるか満州の戦地に配属されていた伊藤与蔵へのもの。

戦地にある伊藤への気遣いといたわりの言葉に満ちたこの手紙は
「万里長城に日章旗が翻へる」等という表現があるが為に
賢治の思想について注目されがちですが
それはともかく、この手紙を眺めていてふと
先に挙げた部分に目がとまりました。

2度目の大きな病に長く伏しており
「殆ど社会から葬られ」と書く賢治。
賢治自身知ってか知らずか賢治の命はもうすぐ尽きようとしていました。

「それでも何でも生きている間に」「一段落つけやうと毎日やっきとなってゐる」のは
「昔の立願」。

昔の立願とは何でしょうか。

このころ病臥しながら賢治にできたのは
詩、特に文語詩の推敲と童話の手入れ。
乞われての同人誌への投稿とそれに伴う詩人達との交流。

死の直前まで捨てなかったのは
「作品」への執着。

生前世間にはほとんど知られずとも
賢治が最後まで夢見たものは
自分の作品を一人でも多くの人に見てもらいたい、
一人でも共感してくれる人がほしい、ということでしょうか。
それはやはり、絵でも読み物でも、
創造することによろこびを見いだした者にとっての共通の願いでしょう。
それでお金を稼ぐとか、名誉を得るとかとは全く別の想いだと思うのです。

そしてこの「昔の立願」は
賢治の生涯のうちで
かなり早い段階で立てられたのではないかと私は思いました。

「願いを立てる」で思い浮かぶのは
大正6年7月に嘉内と二人で登った岩手山での誓い。
あるいは遅くとも大正10年に家出をし上京したとき。

結局何をやっても挫折に終わった賢治の生涯。
しかしこの願いは決して捨てなかった、というより
生涯を通じての賢治の本当の「やりたかったこと」だったのだと
あらためて感じました。


この年の1月7日 菊池武雄あて 封書 〔445〕には
「それでもどうでもこの前より美しいいゝ本の数冊をつくりあげる希望をば捨て兼ねて居ります」
とあります。
やはり賢治は第2の童話集や詩集の出版への希望を持っていたのです。

現存している最後の手紙は9月11日 柳原昌悦あての手紙〔488〕であり、
そのなかには
「風のなかを自由にあるけるとか、はっきりした声で何時間でも話ができるとか、じぶんの兄弟のために何円かを手伝へるとかいふやうなことはできないものから見れば神の業にも均しいものです」
とあります。
そんな状況にあっても、書き続けた賢治。

弱った病人にとって、人と話をするよりも
ものを考え書くことのほうが肉体的に辛いことのように思うのですが
きっと休み休みしながら
書いていたんだろうなと思います。

賢治がもし、病に負け気力を無くし
「どうせおれはもうダメだ」などと自ら作品を捨ててしまったり
弟に頼んで燃やしてしまっていたら…?
そう考えると、賢治が最後まで夢を捨てないでいてくれて
本当によかった、と思うのは私だけではないはずです。

その生涯最後の手紙の最後は
「また書きます」
となっています。
もちろん、手紙を、と言う意味ですが
私はそこにあえて違う意味も重ねます。

「世界がぜんたい…」 [思うこと]

  農民芸術概論綱要
  序論
  ……われらはいっしょにこれから何を論ずるか……

   おれたちはみな農民である ずゐぶん忙しく仕事もつらい
   もっと明るく生き生きと生活をする道を見付けたい
   われらの古い師父たちの中にはさういふ人も応々あった
   近代科学の実証と求道者たちの実験とわれらの直感の一致に於いて論じたい
   世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない
   自我の意識は個人から集団社会宇宙と次第に進化する
   この方向は古い聖者の踏みまた教へた道ではないか
   新たな時代は世界が一の意識になり生物となる方向にある
   正しく強く生きるとは銀河系を自らの中に意識してこれに応じて行くことである
   われらは世界のまことの幸福を索ねよう 求道すでに道である



大正15年、賢治は国民高等学校で「農民芸術」について講義し、
『農民芸術概論綱要』を書きました。


震災で被害を受けた人々を呆然とTV画面で見ているだけの
己の無力がもどかしく
涙を流し、オロオロ歩くしかない。

なすすべなく、そうするよりなかった賢治の気持ちが
少しはわかる気がする。

「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」


頭ではわかっているつもりだった。
今、この言葉の意味が実感できる。

隣人が苦しみ悲しんでいるなら
決して知らん顔ではいられない。

日本はひとつ。
世界はひとつ。

誰かの犠牲や苦しみのうえに成り立つものは
ほんとうはじつにもろいものなのだ。
しかし、ほんの一握りの利益のために
あやつられているものの何と多いことか。

科学を過信し技術に思い上がり
神を冒涜してきた人間。

私たちは今、ほんとうに大切なものを見極め
便利さを求めて浪費してきた生活を見直すターニングポイントに立っている。

みんながひとつになって
新しい健全な日本に立て直さなければ
亡くなったたくさんの尊い命が浮かばれない。

がんばるのは被災者ではなく
側にいる私たちのほうだ。

生き残ったあなた方は、それだけで意味がある。
私たちに勇気を与えてくれる。
命の尊さを教えてくれる。

亡くなった方々は、私たちを見守ってくれている。
想う人の側にいつも一緒にいる。


「われらは世界のまことの幸福を索ねよう 求道すでに道である」


戦うべき相手 [思うこと]

四一一
     未来圏からの影

                  一九二五、二、一五、


   吹雪(フキ)はひどいし

   けふもすさまじい落磐

     ……どうしてあんなにひっきりなし

       凍った汽笛(フエ)を鳴らすのか……

   影や恐ろしいけむりのなかから

   蒼ざめてひとがよろよろあらはれる

   それは氷の未来圏からなげられた

   戦慄すべきおれの影だ



1925(大正14)年2月15日の日付のある宮沢賢治の詩です。


情熱を傾けて生徒を指導し、
二日間に渡って「飢餓陣営」や「ポランの広場」などの
盛大な上演会が行われたのが大正13年8月。

ところがその後一ヶ月もしないうちに、
実質上の学校劇禁止令が出されてしまいました。

賢治の落胆は大きかったに違いありません。

そのことも教師を辞めて学校を去る決心に
つながったのではないかとも言われています。

この詩を書いた2ヶ月後には
樺太に就職した元教え子に書いた手紙に
「わたくしもいつまでも中ぶらりんの教師など生温いことをしてゐるわけに行きませんから多分は来春はやめてもう本統の百姓になります。そして小さな農民劇団を利害なしに創ったりしたいと思ふのです。 」
とも書いています。
「農民劇団」などと書いたところをみると
やはり演劇に対する愛着は強く、
学校を辞めた要因の一つだったのではないでしょうか。


この詩を書いた発令の翌年2月には、
賢治はすでに教師を辞める決心をしていたのかも知れません。
あるいはその方向に気持ちが定まりつつあったことは
間違いない気がします。

未来圏から投げられた己の影に戦慄する賢治。
前途は見えない。
けれども自分で定めようとする道を進まねばならない。

己の影と戦う!とは…!?



『ワルトラワラ』に連載されている松田司郎氏の
ユングと賢治のことなどを読み、
賢治が生涯、いったい何と戦っていたのかが
わかりかけた気がします。

どうにも動かせない「そのまっくらな巨きなもの」や
「僕もうあんな大きな暗の中だってこわくない。」と飛び込んでいく恐ろしい穴。

一見、自分の外にあるものとの戦いのような気がしますが
実は戦う相手は自分自身である、ということ。

「大きな暗」とは、自分自身の中にあるもの…!

目標に向かって進む時、
夢を叶えようと努力する時、
結局はみな、他でもない自分自身との戦い。


そんなことを考えた時
私が素晴らしいと思い敬愛する人は皆、
決して他人と戦いはしない、ということに気づきました。

トラブルが起こったり上手くいかない時であっても
決して他人のせいにしたりはしない。
ましてや他人をねたんだり恨んだりもしない。
そしてそのような人は、他人にはとても優しく寛大なのです。

本当に戦うべき相手は自分自身であるということが
よくわかっているからだと
ようやく私も気づいたのです。
(情けない…)



そんなことを考えながら
賢治の作品を見直してみると
これまでとは全く違ったふうに見えてきました。
そのひとつは「よだかの星」。

それについてはまた次回に書きたいと思います。



※詩「未来圏からの影」のテキストは、「宮沢賢治の詩の世界」さんよりコピーさせて頂きました。

輝く人生 [思うこと]

 只今禁ツイッター中、ということで
 このところブログをツイッター代わりにしている感がありますが
 そこはひとつご容赦を…

先日、登山家の田部井淳子さんの講演に行ってきました。

次の日、NHK総合のプロフェッショナルで放送された
デザイナーの石岡瑛子さんの回を見ました。。

お二人とも71歳。

好奇心はつきることなく
人生まだまだやりたいことがいっぱい、と
世界を股にかけて飛び回っておられます。

一人の女性として、というよりも人間として
信念をもって輝いて生きている。

少しでもあやかりたい。

元気と勇気をいただきました。

笑はれて居りまする。 [思うこと]

暫らく御無沙汰いたしました。お赦し下さい。度々のお便りありがたう存じます。私から便りを上げなかったことみな無精からです。済みません。毎日学校へ出て居ります。何からかにからすっかり下等になりました。それは毎日のNaclの摂取量でもわかります。近ごろしきりに活動写真などを見たくなったのでもわかります。又頭の中の景色を見てもわかります。それがけれども人間なのなら呪はその下等な人間になりまする。しきりに書いて居ります。書いて居りまする。お目にかけたくも思ひます。愛国婦人といふ雑誌にやっと童話が一二篇出ました。一向いけません。学校で文芸を主張して居りまする。芝居やをどりを主張して居りまする。けむたがられて居りまする。笑はれて居りまする。授業がまづいので生徒にいやがられて居りまする。 春になったらいらっしゃいませんか。関さんも来ますから。 さよなら。

[199](1921年12月)保阪嘉内あて 封書


『友への手紙』では〔72〕となっている書簡です。
つまり現存する嘉内への手紙の最後から2番目の手紙です。

〔73〕の「来春はわたくしも教師をやめて本統の百姓になって働きます」
という手紙を最後に、賢治からの保阪嘉内への手紙は残っていません。

そのこともひとつの理由になって、
賢治と嘉内は“訣別”したと言われています。

前に記事にも書いたように佐藤成『証言 宮沢賢治先生』(農文協)を読んでいて
P144に掲載されているこの手紙をあらためて読み
このときの賢治の気持ちが
手に取るように伝わってきました。

確かにその夏東京で、賢治と嘉内は宗教問題等で
ぶつかり合ったように思います。
しかし、この手紙を読む限り
嘉内に対して否定的な感情は微塵も感じられません。
それどころか
それまでのかたくなな姿勢を改め
嘉内に歩み寄っているようです。

「度々のお便り」とあるところから
その後、嘉内からは何度か手紙がきていたのでしょう。
ということは勿論、嘉内も賢治を拒否してはいない。

「何からかにからすっかり下等になりました。(中略)
それがけれども人間なのなら私はその下等な人間になりまする。」

 それまで理想にのみ生き、人々をどこか卑下していた自分がいた。
 君に言われて目が覚めたよ。
 人々の中に地に足を着けて歩いてみるよ。
 それに今たくさん書いているんだ。
 君に見せたいよ。
 学校でも文芸を主張している。
 君の好きな芝居や踊りを大いにやっている。 
 そしておもしろがられているんだ。
 教科書も使わないで教えて驚かれている。
 暖かくなったらぜひ会いたいなぁ。
 関さんも来るから君も来ないか。

“訣別”した相手には
このような手紙をだすことはないはずです。

「若き日の手紙展」の図録で写真をみると
この手紙は原稿用紙一枚に書かれています。
まるで頑張って創作しているのだといわんばかりです。
「愛国婦人」に童話が掲載されたことも
さりげなく自慢(!)しています。

大正10年以降、
賢治から嘉内への手紙は出されなかったのではなく
残っていないだけであり、
賢治と嘉内が決して“訣別”したわけではないと
この手紙は、語っています。

淵沢小十郎の住処 [思うこと]

  なめとこ山の熊のことならおもしろい。

という所から始まる童話「なめとこ山の熊」。
この「おもしろい」という言葉に
賢治は様々な意味を込めたのだろうと思います。

熊を捕って毛皮や胆を売って細々と暮らしている小十郎。
この猟師(マタギ)にはモデルがあり
豊沢の部落に住んでいた松橋和三郎かその息子勝治だということが
わかっているらしいのです。

「なめとこ山」が実在していた山かどうかはよくわかりませんが
やはり豊沢川上流のあたりが舞台だということは確かなようです。

それで地図でその辺りをみていて思い出したのは
豊沢ダム建設時に、松橋親子のいた部落が沈んでしまったということです。
確か昨年読んだ岡村民夫さんの『イーハトーブ温泉学』に書いてあった!
ということで確認してみると、やはりその記述がありました。

『イーハトーブ温泉学』によれば、
松橋勝治さんは1968年に亡くなられています。
ダム建設のための調停がされたのは昭和27(1952)年。
ダム完成は1961年。
どんな思いで長年住み慣れた故郷を離れていかれたのかと思うと胸が痛みます。


前回の記事にコメントをくださった滋賀県にお住まいの
Kuma様の故郷は、ダムに沈んでしまわれたとのこと…
つまりは小十郎の故郷と同じだったのですね!

「雨ニモマケズ」の「ヒドリ・ヒデリ」のことで
『宮沢賢治の詩の世界』
2010年6月17日 入沢康夫『「ヒドリ」か、「ヒデリ」か』の記事にコメントをされていて
私もそれを拝見して記憶に残っていました。

引用させて頂きます。
 
永年住み馴れた墳墓の地に限りない愛着を感じながら、昭和27年4月、豊沢ダム建設に伴う移転補償契約に正式に調印を行いました。これを機に、部落民はそれぞれ新天地を求めて各地に移転しました。   あれから30年経過しました。 生れ育ち、住み馴れた地を去る時のあの骨肉をひきさかれるようなつらい思いや、・・・」 移転30周年記念の豊沢会会長の文(一部分)です。 「ヒデリ」であって欲しいと思います。


賢治がなすすべなくナミダヲナガすしかなかった「ヒデリ」を解消するために、
沢山の小十郎達やその子供達の村は、水の底に沈んでしまったのです。

Kuma様が、「クマ」と名乗られている理由はそうだったのかと
遅まきながらやっと合点がいったわけです。

今年の賢治祭に、私は大沢温泉に泊まろうと考えているわけですが
その上流に足を運んで、
ダムの底をしっかりと見つめてこようと思っています。


※追記 松橋親子の苗字を松崎と誤記している箇所があったので訂正しました。
    教えて下さったTさん、伝言を伝えて下さったKumaさん、
    ありがとうございました。(2011.11.17)

    

…来る年 [思うこと]

明けましておめでとうございます

年女ということもあって、
2011年はなんとなく気持ちが晴れやかで
いいことが待っていてくれるといいなぁという期待が
いつもよりちょっぴり大きいです。

これまでの人生、ぼんやり生きてきた私。
何かをやりとげようとか頑張ろうとか
真剣に思ったことがなく、
なんとなくそれなりにやって、それなりに結果はでて
だからそれなりに日々を送ってきたというのが本当のところです。

いえいえ、決して不満があるわけではなく
そんな自分には、充分すぎるほど
幸せな毎日を送ることができています。

今自分の手の中にあるものは
大切なかけがえのないものばかりです。
本当にありがたいことです。

でもでも、このままぼんやりではイケナイという
自分の中からの声が、数年前から聞こえるようになりました。
きっとそれまでもささやき続けていたはずですが
今頃になってやっと自分が
その声を聞くことができるようになったのかもしれません。

とにかく、ここでやらねばどこでやる、
自分がやらねば誰がやる、というような目標が
昨年暮れあたりから見えてきました。

他人から見れば噴飯もの、
身の程知らずな挑戦かもしれませんが
たとえ結果がどうであれ、
自分の今できる限りの力を出し切ってやるべきこと。
それが、きっとその後の自分に大きな糧になることだと考えています。
元旦に初日の出を拝みながら
「お願い」ではなく、決意をしたのは、これまでになかった自分です。


そして今年は、私が関わっている韮崎市の
「保阪嘉内、宮沢賢治アザリア記念会」の大きな節目の年でもあります。
こちらも、微力ながらできる限りのことを
お手伝いしていきたいと思っています。

あと、目前にあるのは息子のセンター試験と入試。
(私に似たのか)なかなかエンジンのかからない息子ですが
できる限りの力を出し切って
乗り切っていって欲しいと思います。

とりあえずは
年頭に、「頑張ります宣言」をしておけば
多少のことでは弱音は吐けまい、という魂胆で
ご挨拶にかえて…。

皆様にとって、喜びの多い一年でありますように!

行く年… [思うこと]

今年も残すところ2日です。
お陰様で無事一年を過ごすことができました。

振り返ればいろいろとありましたが、
総合的にみれば今年も充実した良い一年だったと思います。

念願だった大好きな二人のミュージシャンのライブもありました。

山梨の韮崎には2回行けましたし
新しい出会いもありました。

特に宮沢賢治関係では、
数年前までの、たったひとりで本を読み
あれこれ考えていただけの自分からしてみれば
なんとも夢のような今の状況です。
数々の素晴らしい出会いは宝物。
それにこの拙いブログを読んでくださる方々があることは
私の日々の活力です。
みなさまには心より感謝している毎日です。

今年は本とのいい出会いも多かったです。
前回の記事の『存在の祭りの中へ』(見田宗介・著)や
同人誌『ワルトラワラ』もそうですが
必ずしも新刊ばかりでなく
これまで知ってはいたが難しいと思い読めなかったり機会を逃していたものにも
再びの出会いで、今回はすんなり自分の中に入ってきた、というようなこともありました。

ざっと思い出すだけでも以下のとおり。

『イーハトーブ温泉学』岡村民夫・著
『「宮沢賢治」の誕生』大角修・著
『絶後の記録』小倉豊文・著
『私家版「宮沢賢治と星』草下英明・著
『宮沢賢治とサハリン』藤原浩・著
など…。

賢治関係ではありませんが、『心の医療宅配便』高木俊介・著も。


それから、素晴らしい作家さんとの出会いも!
寮美千子さん。
『楽園の鳥』
『夢見る水の王国』
『ノスタルギガンデス』と『小惑星美術館』
『雪姫おしらさま迷宮』などなど…



1月から恐る恐る(?)始めたツイッターは予想以上に楽しく、
こちらの方でもまたたくさんの出会いがあり
様々な職業や立場の方々の、
何気ないつぶやきや思いのこもったつぶやきから
教えられたり共感したり、「目から鱗」のことも少なくありません。
自分の見識の狭さを思い知ることも多く
物事の一面しか見ていなかったと気づくことも。

素晴らしいのは、普段の生活、現実の世界では
出会うことも、話をすることもないはずの人と
ツイッターの中では容易にコミニュケーションが取れることだと思います。


人間関係で悩んでいた時期に
私を助けてくれたのもやはり「人」でした。
その節はずいぶん愚痴も言ってしまいましたが
返された温かい言葉にどれだけ救われたかは言葉に表せません。


みなさまに感謝をしつつ
足早にかけていった2010年を見送ろうと思います。

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。