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『群青に沈め』熊谷達也 [本]

熊谷達也さんの他の本も読んでみたくなり
『群青に沈め』を読みました。

終戦直前、17才の特攻要員の話です。
特攻隊といっても、よく知られた神風飛行隊ではなく「伏龍隊」という潜水隊です。
しかも潜水艦に乗るわけではなく、
潜水具を着け竹竿の先に機雷の付いたものを持って海に沈んでいて、
米軍が上陸する際に下から攻撃するというもの。
伏龍特別攻撃隊
笑ってしまいますが、事実です。
当時はまじめにこんなことをさせられていたのです。
日本がいかに窮状にあったかということでしょう。

過酷な軍隊生活のなか、浅沼少年の目を通して
当時の少年兵達の思いや戦争を描き出しています。
まるで今の学園もののようなタッチで描かれているのですが
だからといって決して軽いわけではありません。
日常のなかに戦争があったのだということを
リアルに感じることができ
かえってその恐ろしさ、異常さを示してくれているような気がします。

いつでもどこでもそうだと思うのですが
人間は案外自分の周りのことしか見えず、
全体がどうなっているのか、他でなにが起きているのかはわからないのだと思います。

この角川文庫の池上冬樹さんの解説にあるように
ここにはイデオロギーが希薄。
考えてみれば自分が17才の頃、周りに反感や嫌悪を感じたとしても
はっきりと主義主張があったわけではなく
結局時代や体勢の流れのまま生きていました。
いや、若いときだけでなく今もかも…。

時代の波は様々であっても
そこにもまれて生きる人間の本質はさほど変わらないのだと思う。
それなのに、現代に生きる私達は
どこか過去の人々より賢く優れている、よくわかっている、
と思ってはいないでしょうか。
この本を読んで、なんとなくそんなことを考えました。

もうひとつ、この物語の舞台は
三重海軍航空隊(現在の津市)や志摩地方の安乗(あのり)です。
それらは私の生まれ育った界隈なのです。
伊勢市の明野(以前は度会郡)には陸軍飛行学校があり、
今も自衛隊の駐屯地がありますが、
津市に海軍航空隊があったことは知りませんでした。

安乗や波切(なきり)といった志摩の子たちは、
高校に通うため伊勢市内に下宿をしていたのを懐かしく思いだしました。
彼等は親元から離れ心身共に解放されて
やんちゃな子が多かったなぁ…

実はこの本を名古屋への電車の行き帰りで殆ど一気に読んでしまったのですが
夢中になりすぎて危うく乗り過ごすところでした。
ひさびさに、全作品を読んでみたいと思う作家に出会いました。

『邂逅の森』熊谷達也 [本]

熊谷達也さんの小説『邂逅の森』を読みました。

JR東日本発行の新幹線車内サービス誌「トランヴェール10月号」を
花巻の豊沢出身のKumaさんに頂いて読んだのがきっかけです。
奇しくもその特集が「『邂逅の森』を旅する」でした。

主人公は秋田のマタギで、名前は松橋富治。
なんと「なめとこ山の熊」の小十郎のモデル松橋勝治さんと一字違い。
勝治さんは父和三郎さんの時代に秋田から豊沢に移ってきたらしいのです。
そんなこともあって、大変興味深く読みました。

マタギだった富治は、地主の一人娘と恋に落ち、村を追われることになる。 鉱山で働くも、猟への思いは断ち切れず、再びマタギとして生きる。 山の神を畏敬し厳しい掟を守り、人里から切り離した独自の世界を保つマタギ社会だったが ここにも近代化と時代の波が押し寄せる。 戦争で毛皮の需要が増加したため、人々が山に入り込んで安易な猟をし山を荒らしていく。

松橋親子が秋田から岩手に移り住んだ背景には
実際こういうことがあったのかもしれない、と思いました。

小説は富治の男としての赤裸々な部分も描いており
最初はちょっと生々しい描写に戸惑い、不要だとさえ思ったけれど、
それはじつは、後になってからそれらが生きてくるのです。
不器用で間違いも犯す、愚直な生き方かもしれませんが
富治の魂のまっすぐさが、ある出来事と、その時の彼の覚悟から感じ取れる。
その場面では心底心打たれました。衝撃的でした。

小説はその当時(昭和初期)の東北の悲惨な農村の暮らしも描きます。
貧しさゆえに娘を十二やそこらで身売りに出す。
売られた娘は、生きていくために身も心も汚される。
しかし、富治の妻となった時からその娘イクは覚悟をもって生き直す。

ふたりの生き様が迫ります。
人間の生き方の本質は、時代や文化がどうであれ
変わるものではないのかも知れません。

己の業や運命を受け入れつつ、理屈ではない、己の心の示す「道」を進む。
ラストシーンは衝撃的であり壮絶です。
生きるとはこういうことだ、と突きつけられたような気がします。

そしてこの小説における富治と熊の関係は、
賢治の「なめとこ山の熊」の熊と小十郎の関係と同じものではないかと
ラストシーンで感じました。

読み進めていくにつれ
それまでの、イメージでしかなかったマタギ像は
欲も迷いもある血の通った私達と同じ生きた人間に変わりました。

もちろん小説ですからフィクションなのですが
私の中ではもうすっかり、松橋富治というマタギが生きているのです。
ひたむきな、愛すべき人間として。

最後に、この本に書かれているマタギの猟は、
数人で追い込む「巻き狩り」が中心で
或いは罠をしかけたり二人や三人で組んだりもしますが
いずれも人間だけの猟です。
一方、豊沢の松橋親子は犬を飼っていて、猟に連れて行ったとのこと。
小十郎も犬を連れて猟をします。
このことからもやはり賢治は、
松橋親子に直接会ったことがあるか人から聞いたかして、
この親子のことを詳しく知っていたに違いないと思うのです。

※ Kumaさんに教えて頂いたサイト→「狩りの文化」

ふたりでお茶を… [本]

さて、嘉内に大きなバッテンをくらったもうひとりの人(くどい?)といえば。

大正10年7月21日、道玄坂下にて
保阪嘉内と一緒に珈琲を飲んだのは林髞(はやしたかし)です。

林と嘉内は甲府中学校の同級生。
慶応義塾大学医学部に進み、大脳生理学を研究。のち医学博士に。
「パブロフの犬」で有名なパブロフのもとで条件反射学を研究。
それだけではなく
木々高太郎(きぎたかたろう)という筆名で
1934(昭和9)年、探偵小説「網膜脈視症」で小説家としてもデビュー。
1937年には『人生の阿呆』で第4回直木賞を受賞。
推理小説という言葉も彼が生みだしたようです。
1951年創刊の「三田文学」編集委員となり、松本清張を見いだします。
頭がよくなる「頭脳パン」というのも彼が提唱だとか。
聞いたことあります、「頭脳パン」。
  たくさん食べればよかったなぁ。

その『網膜脈視症』が現在も春陽文庫から出ているのを知って
さっそくネットで購入し、読んでみました。

網膜脈視症.jpg

簡単にいうと大心池(おおころち)医師が精神分析を用いて、
事件関係者の心を読み事件を解決するというシリーズ短編集。
現在とは、病名などもかわっているものが多いと思いますが
医師ならではの専門的な趣向とレトロな雰囲気が独特の世界を作っています。
私はなかなか好きです、この本。
 古い洋風建築の窓の木枠、白い壁、匂い…。

そんなはずはないのに、なんだか前に読んだことがある気がするのは
何故でしょうか。

恐らく推理小説の草分けのひとりかと思いますが
嘉内のまわりには、才能豊かな人が多くて驚きです。

ふたりは珈琲を飲みながら
どんな話をしたんでしょうね。

『忍剣花百姫伝』全7巻 越水利江子 [本]

越水利江子さんは主に児童文学・ヤングアダルトなどを手がけている作家さん。

作品を読むたびに感じるのは
どれも大変読み応えがあること。
一応子ども向けなので、易しくわかりやすい言葉で書かれていますが
行間に込められているもの、広がるものは
ジャンルを超えて計り知れません。

この作品『忍剣花百姫伝』もまさにそうで
「子どもの読むもの」と侮るなかれ。
表紙や挿絵がアニメ風なので、もしかしたら敬遠される方や
軽く見てしまう方があったらそれはたいへんもったいないことだと思います。

時代は戦国乱世。
「五鬼」とよばれる五つの忍者の城があった。そのひとつ白鳥城が一夜にして滅ぼされる。
さらに八剣城(やつるぎじょう)も城落、四歳の花百姫(かおひめ)は行方知れずとなる。
みなしごとなっても力強く生きぬく花百姫。やがて姫に引き寄せられるように再び集結する八人の忍剣士たち。力を合わせ、それぞれの能力を果たすことで霊剣・天竜剣をはじめとする九神宝をまもり命がけで正体不明の敵と戦う・・・

ファンタジーをはじめとする物語のいいところは
読者自身の問題や現実の状況にも置き換えることが可能で
それらを解決するヒントや心の在り方、
自己の活力や希望に変えることが
できることではないでしょうか。

実際私は、今まで読んできた物語からたくさんのものを得てきたし
そこに描かれているのが「真実」「本当のこと」だと感じることがよくあります。


忍びの者たちが使う秘術、
遠く見えないはずの物を見たり聞いたり、
瞬間移動したり、時空を行き来したりなど
一見、非現実的のようですが
人間の能力は計り知れず
現実の世界でも、説明のつかないことが起こったり
何かを感じたりします。

花百姫がたった一人で戦うときにも
寄り添って一緒に戦う影。
それは何を意味するのか。
愛と信頼によって他の誰かに支えられた心のことではないのでしょうか。

そして胸に突き刺さり次第に強く大きくなる燐光石とは。

世界を破滅に向かわせる恐ろしい悪魔の兵器。
地獄の火炎で焼き尽くす閃光。
このシリーズを読んでいるときに起きた3月11日・東日本大震災と
忌まわしい原発事故は
物語と重なるどころか
まるでこれは今の日本で起きていることそのものではないかと
戦慄すら覚えました。

でも、主人公・百花姫をはじめとする登場人物たちは
時にお互いに不信に陥り反目することがあっても
それぞれの底にあるのは同じ願い。
本当の敵、戦う相手を見抜くべき切磋琢磨しながら助け合い
力を合わせて強く生き抜いていく姿に
人間に必要なのはどんな時にも決して希望を失わないことであり
いま私達に問われているのは諦めないことだと教えてくれます。

そして一番たいせつなこと。
それはどんな人にもその人にしかできない役割があること。
例えば一見愚かに見える「醜草(しこくさ)」という者は、
気が弱く満足に戦うことはできないけれど、傷ついた人を癒す力がある。
万能な人間はおらず、それそれが自分にできることをせいいっぱい努力し
その力を合わせることで何倍何百倍の力となる。
すべての物事は、そうやって動いていく。
世の中に、必要でない人間なんていない。

とにかく、ドキドキはらはらしながら楽しく読める物語、
そのなかにたくさんの宝物が詰まっている本。
この本に出会えたことは幸せなことです。

こんな今の世の中だからこそ
読んでみて欲しい一冊です。


さてここからはおまけ。

この物語には「真言」が出てきます。
危機せまったとき、剣士たちが唱えるのですが
たとえば「おんばやべいそわか」「のうまくさらばたたぎゃていびゃく・・・」など。

インドから伝わった梵語が、日本でもまじないの言葉として
お経とはまた別に広まっていたということでしょうか。

なんだ~、これっってジョージ・ハリスンが唱えて歌っていた
「マントラ」と同じだったんだ…と妙になっとく。


そして賢治の作品

  「早春」

   黒雲峡を乱れ飛び  技師ら亜炭の火に寄りぬ

   げにもひとびと崇むるは  青きGossan銅の脈

   わが索むるはまことのことば

   雨の中なる真言なり


にある「真言」もこれなんだ。
と今更気づいたわけです。

というのも私はこの「真言」をどういうわけか
まことのことばと言う意味で「まこと」と読んでしまっていたからです。
(あながち間違いでもない?)


そんなこともあって、前の記事でも書いたように
「密教」やそれにからんだ歴史というものに興味を持ち
本を読んでみたりもしているところです。

点でしか把握できていなかったことが
結びついて線や面あるいは立体的にたち現れてくるのは
とても面白いことでもあります。

美しき古書 [本]

今年になって買った古書4冊。
どれも500円から、高くても3000円くらい。

①『盛岡高等農林学校写真帳 熱きポランのひろば』(トリョーコム)
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文字通り、賢治が学んだ盛岡高等農林の歴史が写真と解説で
アルバム形式で綴られています。
当時を知る人の貴重な証言も。
昔の学生の生き生きとした様子を知ることが出来ます。
賢治や嘉内の学校・寮での生活、下宿の様子なども伺い知ることができ、
資料としても素晴らしいもの。
昔の学生さんはけっこう皆、やんちゃだったようです。


②『宮澤賢治名作選』松田甚次郎編(羽田書店)
    昭和18年5月20日第12刷発行(昭和14年3月7日第一刷発行)
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この本に関してはこちらのブログに詳しく書かれています。
ブログ「宮澤賢治の里より」さん

私はこの賢治が彫ったといわれる生の捺印が欲しくて
この本を手に入れたようなものです。
(なんたるマニア!?)
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ちなみに「宮澤賢治の里より」さんの本は昭和17年発行の第11刷で定価3円。
私のは昭和18年発行の第12刷。
値段も定価3円から、一年後は特別行篤税なるものがついて3円10銭に。


③『科学は何処へ』マクス・ブランク著/寮佐吉訳(白帝社)
   昭和22年7月20日発行

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訳者の寮佐吉とは、作家・寮美千子さんのお祖父様。
賢治の蔵書に、佐吉が訳した本『通俗電子及び量子論講話 / ジヨン・ミルス[他]』(黎明閣1922)があります。

そんなこともあって、時々、寮佐吉の本を探すのですが
これがなかなか出てこないのです。
そうしているうち、たまたまオークションに出ていたこの本を見つけたので
落とすことができ、大変ラッキーでした。

寮美千子さんのサイト「HARMONIA」より
「賢治との接点」


④『農業気象学』稲垣乙丙著(博文館)
 初版は大正5年。私のは大正12年4月1日発行の第6版。

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この分厚い学術書は、盛岡高等農林で賢治や嘉内達が実際に学んだ本とのこと。
保阪家にも大正7年発行のものが残っています。

表やグラフ、絵などが豊富で美しい本。
特に雲の種類に関する頁には
雲の絵の上に、薄い透写紙に雲の名前が書かれたものが置かれ
とても綺麗です。

この本が届いたとき私が何より驚いたのは、
頁の余白にあるたくさんの書き込み。

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精密な絵や文字は
この本の持ち主が、懸命に学んだしるしです。

約90年の昔、農業の未来のために
一生懸命勉強していたその人の頁をめくる指先、
息づかいまでもが感じられるようでした。

状態もとてもよく、大切にしていたんだろうなぁ。
卒業後のその人の人生はどんなだっただろう。

そう思うとこの本がとても愛しく思え、私も大切にしたいと思いました。

おそらく賢治や嘉内も、こんな風に一生懸命勉強したのでしょうね。


この砂はみんな水晶だ [本]

そして間もなく、あの汽車から見えたきれいな河原に来ました。
 カムパネルラは、そのきれいな砂を一つまみ、掌にひろげ、指できしきしさせながら、夢のやうに云ってゐるのでした。
「この砂はみんな水晶だ。中で小さな火が燃えてゐる。」
「さうだ。」どこでぼくは、そんなこと習ったらうと思ひながら、ジョバンニもぼんやり答へてゐました。
 河原の礫は、みんなすきとほって、たしかに水晶や黄玉や、またくしゃくしゃの皺曲をあらはしたのや、また稜から霧のやうな青白い光を出す鋼玉やらでした。

  「銀河鉄道の夜」の 〔七 北十字とプリオシン海岸〕の部分です。


『宮沢賢治はなぜ石が好きになったのか』堀秀道・著(どうぶつ社)
という本が図書館にあったので借りてきました。

題名からして賢治の研究だとおもったのですが
賢治に関することは最初の二編だけで
殆どは鉱物や宝石が中心の話でした。

それでも、その短い二編には驚きの内容というか発見がありました。

それは著者が花巻の北上川に行き
中州に降りてみたら半時のうちに十数個の多様な石が集まったというのです。

幼い賢治が、色とりどりの石を拾って
目を輝かせている姿が見えるようです。

そのうち夕暮れになり
キラキラ光る方に行ってみると
それは水晶の粒が集まっているところがあったのだと。

しかもある箇所にはこの水晶のみで出来ている白い浅瀬があったとか。

これらはもう、
「銀河鉄道の夜」に出てくる光景そのままではありませんか。

北上川の水晶は「高温水晶」といって
高温の火山岩中に出来た六方水晶で柱状にはならず
ころころと丸いのだそうです。

北上川にはほんとうに水晶砂でできた砂があって
拾い上げてみれば
中で小さな火が燃えているのだと思うと
ため息がでるくらい美しい光景…。

ぬれてもかまわない準備をして
私も北上川の中州に行ってみようかな…とほとんど本気で考えています。

『証言 宮沢賢治先生』 [本]

賢治は生涯独身でした。

「童児(わらし)こさえる代わりに書いたのだもや」
と言って、童話を弟たちに読んだことは有名ですが(「兄のトランク」宮沢清六)、
賢治には他にも子供があったことに気づきました。

賢治に隠し子がいた!というのでは決してありません。

今、久しぶりに『証言 宮沢賢治先生』佐藤成・著(農文協)を読んでいます。
サブタイトルに「イーハトーブ農学校の1580日」とあるように
4年と4ヶ月、賢治は農学校の先生として
実に明るく充実した日々を過ごしました。

どれほど素晴らしい教育をしたかは
教え子たちの証言から生き生きと伝わってきます。

今回読み返していて、
以前よりももっともっと強く、生きた賢治を感じています。

「それぞれ、自分がいちばん可愛がられたかのような表情になる」と
佐藤成氏が序章で書いているように
教え子達は賢治との交流を
卒業後もずっと胸に抱いて生きました。

中央の教科書はここでは役に立たないからといってろくに使わず
しかも、大学で習うようなことを2年で教え込む。
生徒達が自分の力で農業をやっていけるように
応用力を鍛え知識を実際に使えるようにする。

「立派な百姓になれ」と生徒に言い続け
実際にそのために必要なことを全力で教えたのです。

いえ、それだけではなく
英語も芸術も(時には性教育も!)
生徒の人生を豊なものにするために
自分の知識をできる限り、しかも易しくかみ砕いて教えたのだと思います。

賢治に教わったことを
生涯胸に深く刻んでそれぞれの人生を立派に生きた子供達。

深い愛情をもって接しなければできなかったことだと思うに至って
それはやはり「親の愛」と同じではないかと思います。

親は、我が子が自立し、自分の人生を切り開いて行けるようにと
育てるものです。

賢治は、いったい何人の子供達の親であっただろうかと
深い感動をもって、この本を読んでいます。

『ワルトラワラ』 [本]

『ワルトラワラ』は松田司郎さんの編集による同人誌。
今月届いたのは第32号です。

今年5月に甲府での講演会に行った時、
講師で執筆者のおひとりでもある加倉井厚夫さんに
教えて頂いたのがきっかけで購読を始めました。
これがたいへんおもしろい!
実は以前から存在は知っていたのですが
もっと早く読めばよかったと思いました。

研究・エッセイ・写真・絵画など多方面にわたり、
各メンバーが得意分野・専門分野から宮沢賢治にアプローチしていて、
それぞれの個性が出ていて素晴らしく、バラエティに富んだ楽しい本です。
年2回刊行。

松田司郎さんの、ユングと賢治との比較から賢治の心の深層を探ろうという連載は、
一見難しいようでしたが、読み始めたら夢中になってしまいました。

これまで、心理学・精神医学から賢治を読み解くという手法には
なぜかあまり意味を見いだせなかったのですが、
納得できることが大変多く、私の賢治への理解も
さらに深いところに届くことができたような気がします。
(もちろん、私の読解力では松田さんの伝えようとされているうちの
いったい何割を理解できたかはわかりませんが…。)

「賢治と食べ物」でお馴染みの中野由貴さんや
「インドラ・ウエブ」連載、賢治記念館副館長の牛崎敏哉さん
花巻界隈の古き姿を伝えてくれる泉沢善雄さん
それから「賢治と星」のことなら加倉井さん、
他にも写真やイラストなど
賢治ファンには実に楽しく読み応えのある本だと思います。

岡澤敏男さんの『「秋田街道」の余聞』は、
大正6年の7月の「アザリア」4人、賢治・嘉内・緑石・健吉による
馬鹿旅行についての詳しい検証です。
岡澤さんは『賢治歩行詩考ー長編詩「小岩井農場」の原風景』という本も出しています。
この本はこの『ワルトラワラ』に連載されていたものに手を入れて
増補改訂されたものだそうです。
図書館で借りて読み始めたのですが
これはぜひ手元に置いておきたいと思い、さっそく注文しました。
(読み終わったらまた報告いたします~)

とまぁ、こんな具合に
『ワルトラワラ』はじつに素敵な刊行誌です。

今年はたくさんの素晴らしい出会いがありましたが
この本もその中の一つです!

『宮沢賢治 存在の祭りの中へ』 [本]

見田宗介著『宮沢賢治 存在の祭りの中へ』(岩波書店 同時代ライブラリー)を読みました。

序章の「銀河と鉄道」から、
感動をもって読みました。
(汽車の中のりんご。
 りんごの中の汽車。)


じつは、若い頃に一度読んでみようとしたのですが、
その時は難しいと思ってどれほども読まずに途中で止めてしまったのです(たぶん)。

私の賢治への理解が少しは進んだためでしょうか。
今回は、ひとつひとつの言葉が深く入って来ました。
こんな“美しい”宮沢賢治論を、私は初めて読んだ気がします。

上手にまとめることができませんが
賢治が何を見ていたのか。
何を索して行ったのか。
少しは理解できたような気がします。

宮沢賢治を、その人以上にも以下にもせずに
一人の希有な感覚の持ち主であった人として
その内面あるいは本質に深くせまり示してくれていると感じました。

有名な「雨ニモマケズ」においては
これまでこれほど的確で簡潔に述べたものを読んだことがないような気がします。
人それぞれ、どのように感じとらえても
かまわないと思いますが
私は「ああほんとうにそのとおりだ」と
深い感動と共にこれを読みました。

賢治の生涯を「挫折」であったとひとがいうことに対し
「わたしたちがこの生の年月のうちになしうることとは、力尽くさずして退くことを拒みぬくこと、力及ばずして倒れるところまあで到りぬくことのほかには何があろうか。」(※下線部は本文では傍点)

と見田氏はいいます。
私も、人が生きることに於いて
それ以上にいったい何があるだろうかと思います。

考えてみれば、「ものごとを成し得た」というひとは皆無かもしれません。
なぜなら自分は成功した、到達したと考えた時点でひとは立ち止まったことになりますから。

死ぬまでひとは挑戦し続ける。
そして次世代にその先を託していく。
ひとの連鎖によって、すべてのものは進んでいく。
みんなのほんとうのさいわいに向かって
ひとびとは進んでいくべきではないか…。

百年ほど前に宮沢賢治というひとがこの世に生まれ
私たちに示してくれたものを
私はこれからも、しっかりと見つめていきたいと思います。

この本の「あとがき」もまた、美しく
著者の想いを知ることができます。

「…宮沢賢治の作品を、おいしいりんごをかじるようにかじりたいと思っているからである。賢治の作品の芯や種よりも、果肉にこそ思想はみちてあるのだ。」

至福の本屋さん「らくだ書店」 [本]

愛知県の東郷町というところに「らくだ書店」という本屋さんがあります。

ここのいいところは、本がたくさんあること。
文芸書や美術書などが実に充実しています。

そして何よりの特徴は
店内にベーカリーが併設されていて
持ち帰りはもちろん、テーブルで飲み物と一緒に頂くことができます。
しかも!売っている本を一冊なら持っていってかまわないのです!
つまり座り読みができる!!

先日は豊田市に仕事があったので、
足を伸ばして「らくだ書店」で昼食をとることにしました。
兼高かおるさんの『わたくしが旅から学んだこと 』を読みながら
できたてのカレーパンと好物のシナモンロール、
それにお代わり自由のコーヒーを頂いて
至福の時間を過ごしてきました。

若い頃から自分をしっかり持って
たゆまない努力をなさってこられた兼高さん。
子供の頃、よく「世界の旅」を見ていた記憶がありますが
実に画期的な仕事をなさっていたのですね。

人生の1/3は勉強、1/3は社会に役に立つ仕事、残りの1/3は自分の楽しみのため
というのが理想の生き方だそうですが、
昭和3年生まれのご自身は、まだやることが沢山あって
自分のために楽しむ時間が持てていないと仰います。
それはそれで、なんて素晴らしい人生でしょうか。

私はといえば。
う~ん…
まだどれもまともにできていないですね…orz


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