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佐藤竜一さんの本『黄瀛―その詩と数奇な生涯』『灼熱の迷宮から』 [本]

昨年に読んだ本なのですが
なかなかアップできずにいました。
佐藤竜一さんが書かれた2冊です。

1冊目は『黄瀛(こうえい)―その詩と数奇な生涯』(日本地域莢会研究書)

黄瀛(こうえい)―その詩と数奇な生涯


中国人を父に、日本人を母に持つ詩人黄瀛(こうえい)の生涯。
賢治との接点は、草野心平の同人誌『銅鑼』で
賢治の10歳下でした。

北海道旅行の折りに花巻に病床の賢治を訪ねています。
1929(昭和4)年のことでした。
「私は宮沢君をうす暗い病室でにらめ乍ら、その実はわからない大宗教の話をきいた。とつとつと話す口吻は少し私には恐ろしかつた。」(「宮澤賢治追悼」昭和9年)

以前、どこかでこの文章を読んだ記憶がありました。
この中国名をもつ詩人とはいったいどんな人だったんだろうかと
なんとなくそう思っていたのですが
この本に出会ってその生涯を知ることができました。

言葉にハンディを持ちながらも、ものおじせずその人なつこい性格から
草野心平や高村光太郎をはじめ、
男女を問わずたくさんの知人・友人がいた黄瀛も
ひたひたと押し寄せる時代の影からは逃れられず
迷った末に父の国である中国に行く決心をしました。

日本人として生きてきたにもかかわらず周囲からは日本人とは認められない、
果たして自分は日本人か中国人か。
二つの祖国の間で時代の波に翻弄されながらも生き抜いた黄瀛。
戦争と文化大革命は、その渦中にある者にとってどれほど過酷なものだったことか。

他国の情勢のことなど少しも知識も興味もなかった子供の頃、
それでも「4人組」とかニュースで伝えられていたことは覚えています。
でも中国の近代の姿を知ったのはずっと大人になって
『大地の子』(山崎豊子)と『ワイルドスワン』(ユン・チアン)という本を読んでからです。

1984(昭和54)年、半世紀ぶりに日本に帰国した黄瀛。
1996(平成8)年の賢治生誕100年には、花巻にて、賢治について講演もしています。

講演の内容を知りたいと思っていたところ
どうやらイーハトーブセンターの『国際研究大会記録』に収録されているようです。


2冊目は『灼熱の迷宮から』。

灼熱の迷宮から。―ミンドロ島から奇跡の生還、元日本兵が語る平和への夢


フィリピンのミンドロ島に特攻隊員として上陸し
戦後11年に及ぶ潜行生活の後、帰国が叶った岩手出身の中野重平さんという方への
聞き取りによって生まれた本です。
ルバング島で戦後約30年も一人で生き抜いてきた小野田寛郎さんは有名ですが
数人の共同生活もまた、それはそれで苦労があったと思います。
諍い、疑い、仲間割れ、原住民との戦いと交流、
それでも知恵と工夫、歩み寄り、協力、信頼を得て
共に過酷な環境を凌いできた。
彼等が帰国できるとなったとき、
隣のルバング島の小野田さんを救出するよう要請があったそうですが
状況を把握できていない小野田さんと対峙するのは危険が伴うとのことで見送ったそうです。
つまり、小野田さんはその存在を知られてからも
20年以上もたった一人で生きてきたということで、それもまた悲劇です。

中野さんたちが島での過酷な生活に耐え抜いたことも凄いことですが
やはり帰国後、家族や知人との再会の場面が胸に迫りました。


最初はこの2冊の重要な共通点に気づかずにいたのですが
『灼熱の迷宮から』は勿論、『黄瀛(こうえい)―その詩と数奇な生涯』も
戦争の犠牲となり
時代に翻弄されたということです。

戦争さえなければ、青春を謳歌し好きなことをやりとげ
多少の波風はあっても平穏な人生を送れていたに違いないのです。

ちかごろは、これを遠い過去のこととして
平和の上にあぐらをかいてはいられないようになってきました。
特に戦後生まれのわたしたちには
まるで他人事にしか感じられないことが
いつ現実になってもおかしくないことを覚悟し
もっと危機感をもち、人任せにせず
目を見張り耳を澄ましていかなくてはならないのです。
まさかこんな時代が再び来るとは誰が考えたでしょうか。
人間は学ばないのでしょうか。

いったい何のための、誰のための国家か。
歴史は暗記するだけのものではなく
お伽噺でもないのですから。
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