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嘉内は駄洒落好き [保阪嘉内]

保阪嘉内の歌稿に『文象花崗岩』というのがあります。
大正6年10月~12月にかけて編んだものです。

「ぶんしょうかこうがん」と読みますが
これが「文章書こう」にひっかけた駄洒落であることは
よく言われていることのようです。


先日、『河本緑石「アザリアの友へ」』という書簡集を手にする機会に恵まれました。
緑石に宛てた書簡の、原本のコピーが収められている本で、1997年発行。
おそらく、身内や一部の関係者、研究家などにしか渡っていないものかと思われます。

ここに収められている嘉内から緑石への書簡は9通。
そして、そのなかに面白いものを発見。

嘉内が勉学に燃え、女子に萌え、青春を謳歌していた盛岡高等農林学校。
大正7年3月、賢治は卒業し、いよいよ3年生に進級という時、
嘉内は突然の理由なき除名処分を受けたのです。
春休みで帰省していた嘉内は、賢治からの手紙によってこのことを知らされました。

そして次の手紙は、封筒が残っていないものの、内容から5月か6月頃と推測されるもので、
失意のなかにあっても再度学問を望み、受験のため東京に下宿していた時の手紙です。

前半は盛岡で妻と暮らしながら盛岡高等農林に通う緑石に
懐かしさと淋しさを訴える内容で、後半から引用。

昨日偶然に市村(仝君の処へは前に一度訪ねたり)市來、福地、来訪、盛岡回旧(※懐旧)の談はづみて、去にし日を忍ばんものと舒明会……蓋し盛岡高農除名を紀念するため、その音に依りて舒明とせしもの。除名、舒明、音相通ず、……を起し一宴を催し夜半相散り申し候。されど舒明より女迷とでも名けし方適当なりたるべし、呵々、その夜も盛岡の話し出でて心躍り申し候ひき。 (以下略)

除名されたことを「舒明会」と名付けて懐かしい友と飲み、
あるいは「女迷会」がいいか、と笑ってみせる。

賢治が送った手紙から想像される嘉内の様子とはまた違った顔が見える手紙です。
あるいは賢治に対しても、こんな感じの手紙だったのかも知れませんが
肝心のものが残っていないので、はたしてどうだったか。

大正8年のノートに残っている「藤井青年團々歌」には
「我健児(わがけんじ)」という歌詞があります。
これも「我がケンジ」と重ねたに違いないと、皆にっこりしてしまうところです。
この歌は実際に藤井青年団で歌われていました。

ほかにも嘉内の残したものを探せば
たくさん駄洒落が出てきそうな気がしますが
いずれぼちぼちと…。

この直後、母の死という不幸が追い打ちをかけ、
結局嘉内は進学を諦めることになります。
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