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宮沢和樹さん講演会『祖父・清六から聞いた兄・賢治』 [催し物]

静岡の駿府博物館で10月12日(土)から始まった、
特別展 没後80年「宮沢賢治・詩と絵の宇宙 雨ニモマケズの心」を見てきました。

当日、あまり時間がなく、ぎりぎりまで迷っていたのですが
えいっ、なんとかなる、って感じで慌ただしく。
でも思い切って行ってよかったです。

一番の目的は、宮沢和樹さんの講演。
定員60名の会場になんと170名が押し寄せ、
殆どの人が立ち見ということになりました。
(もちろん遅くから行った私も立ち見…)
夏のように暑かったけれど会場内はさらにヒートアップ。
そんなこともあって講演は少し早めにスタートされました。

賢治さんは、ストイックなイメージがあると思いますが
実は面白く楽しい人だった、という清六さんに聞いた話から。

コートを着てうつむいている写真はじつはベートーベンの真似という話には
会場から「ほー」という声が。
それから、賢治の身長は自称5尺5寸5分、
清六さんとほぼ同じ166~167㎝くらいだったのでしょう、など。

なんのつてもなかった清六さんが
賢治作品を世に出す努力を続けられたのは
高村光太郎さんが賢治の詩を認めてくれたことが支えになったからだそうです。
その光太郎さんに詩集『春と修羅』を読んでくれるよう渡したのは、草野心平さんでした。
光太郎さんは「自分のものよりも後に残る作品かもしれない」とまで言ったそうです。

花巻空襲の時、清六さんが命がけで防空壕の賢治作品を守った話は有名ですが、
和樹さんも、賢治が今も読み続けられ、自分がこうやって話ができるのは
心平さん、光太郎さん、祖父・清六さんらのおかげであり
賢治を読み、表現したり作品にしたりして
後につながる人がいるからだというようなことを仰っていました。

昭和20年4月に花巻に疎開してきた光太郎さんが
なぜ防空壕がないのかと言ったことから防空壕を作ったのですが、
結果的にそのことが賢治作品を守ったこともあって
宮沢家がどれほど光太郎さんを敬愛し感謝していたかがわかります。


3.11の東日本大震災後
賢治の『雨ニモマケズ』がすいぶん取りざたされました。

和樹さんは、震災被害で家族や家をなくした人々の前で
「ガンバレ、我慢しろ」というようなものであり、
はたしてどう思われるのだろうと案じていたそうですが
時がたつにつれて「行ッテ」という言葉が救助やボランティアの人の原動力になると感じ
それでよかったのかなと思うようになったと。

清六さんによれば、一見放蕩三昧の賢治を父・政次郎が認めたのも
この「行ツテ」という生き方があったから。
賢治は行動の人だった。

詩でも童話でもないこの『雨ニモマケズ』を発表することを
清六さんははじめ躊躇されたそうですが、
ここにはこの「行ツテ」、すなわち賢治の生き方が表れているから決心されたそうです。

ちなみに『雨ニモマケズ』の最後の曼荼羅には
「~行菩薩」が四つ入っている、そのことに和樹さんは最近気づかれたそうです。
もちろん賢治はそのことを念頭にこの曼荼羅を描いたのでしょうね。

それから「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」について、
清六さんはこの「が」を抜いてはだめだよ、と和樹さんに言ったそうです。
人間が中心なのではなく
世界が、すべてのものが、という意味なのだと。

講演後の質問コーナーでは良い質問がたくさん出ました。

詩の解釈について訪ねた人がいたのですが
それは書いた本人にしかわからないことであり、
ひとそれぞれでよいのだ、と和樹さん。

清六さんはどんな人でどんなことが思い出に残っているかという質問には、
清六さんは賢治が好きだった即興詩人の国イタリアやイギリスに行きたくて
和樹さんをつれてヨーロッパに行ったのですが、
ベニスのゴンドラに乗っていてハーモニカを吹いていたら
地元の人達がたいへん喜んで、しかもそれが東洋人だと知りビックリされたというお話。

それから、ヒデリ・ヒドリについての質問。
これは、最初に清六さんと光太郎さんが話し合って「ヒドリ」を「ヒデリ」に直したということ。
その理由は、賢治は少なくとも5カ所以上、「で」を「ど」と書き間違えていること。
そして「雨ニモマケズ」は、方言が使われていないこと。

たしかに「ヒドリ」という方言(日雇いの意味)はあるが、
「雨ニモマケズ」は方言ではなく全て標準語で書かれ
この部分だけ方言が使われることはまず考えられない為。

ところが30年ほど前に賢治の教え子の一人が「ヒドリ」が正しいと言ったことを、
まず週刊誌が面白がって取り上げ、火をつけたこと、
そして研究者と論争になった、
裁判をするとまで言い出した人もいたという経緯を話されました。
(「賢治もツマラナイカラヤメロと言っているのに」と言うと会場も爆笑)

清六さんは和樹さんに、「お前はこっちが正しいとか言う必要はない」と言われたそうです。
必要ならば注釈で記せばよいこと、と。

いずれ明らかになっていくことであり
「これは“スキャンダル”だからかかわるな」とも。

私にはこのスキャンダルという言葉が非常に厳しく感じられ
突き刺さったのです。

私も曲がりなりにも、一愛好家としてブログ等で考えや思いを発信している身ですが
正しいことのつもりでいても
果たしてそれがどういう意味を持つのか何のためかを常に考え
襟をただして様々な事柄と向き合っていくべきであり
研究者ではないからとか無名だからとかいって甘えやいいかげんな発言は許されないことだと
喝を入れられたように感じました。

とはいえ、 疑問や考えを提言していくことは必要なことであり
また、誰でも自由にものが言えるようでなければならないとは思うし
何がほんとうで何が間違いかは、
すぐに判別がつかないことも多いとも思います。
問題は、間違いや矛盾が明らかになったにもかかわらず
それを撤回することなく主張し続けたり相手を非難する態度だと感じました。

清六さんが、賢治を敬愛してきたはずの教え子とその取り巻き(?)に対して
あえて“スキャンダル”という強い言葉を使ったのも
恐らくそういったことへの批判と残念な気持ちだったからだと思います。

書いた本人、つまり賢治がこの世にもういない以上、
ほんとうのことがわからない。
賢治作品には本人が決定した定稿がない。
なぜなら、製本されてできあがったものにさえ
数種類のバージョンの賢治による手入れ、つまり書き換えがあるくらいなのですから。

これを、ほんとうに正しいのはどれかを決めることはナンセンスで不可能です。
明かな書き間違えと思われることも
一部の人から言わせるとねつ造になってしまう。

しかしながら、こんな状態の賢治の原稿と
気の遠くなるような膨大な時間と労力をかけて
ひとつひとつ検証し、決定してきた人達がいます。
その人達でさえ、この最終形が絶対正しいとしているわけではない。
必ず、校異をつけ、誰もがもとの原稿の状態を確認できるようにしているのです。

それが、宮澤賢治と他の作家との大きな違い。
最新の校本をみればわかりますが
本文編ともう一冊必ず校異編がセットになっているのはその為です。
誰一人として、どの作品ひとつとして
故意に削除したり付け加えたり、ねじ曲げたりはしていないし、できないようになっているのです。

私たちが今、賢治作品を心ゆくまで安心して楽しんで
咀嚼して自分の血肉にできるのは
その方々のおかげだと思います。

つまり、賢治の原稿を知り尽くして考え抜いて決定された“本文”には
疑惑や邪推の入り込む余地などどこにもあり得ないのです。
このことは『年譜』についても言えることと思います。
不明な点や曖昧なことは、きちんと説明や参照・引用のもとが明記されています。

和樹さんのお話を聴いて
賢治作品を守ってきた清六さんの考え、
「宮沢賢治」の親族としての姿勢、在り方を
清六さんは和樹さんを常に側において示し続けておられたことを感じました。

清六さんはマスメディアや表舞台に出るのは好まなかったそうですが
それでも、かつて、賢治を慕って花巻を訪れる見知らぬ若者を
喜んで歓迎し家に招いた、などという話をよく耳にします。

一方の和樹さんの素朴で誠実にお話される姿からは、
ありのままの賢治の良さを伝えたいという一心が伝わって来ます。

賢治の宗教観についても興味深いことを伺いましたが、
長くなるのでまた次回にでも。


唯一の心残りは、慌ただしくて
じっくり原画を見られなかったこと。
それでも、賢治の絶筆、遺書、絵と
『雨ニモマケズ手帳』のホンモノは見てきました!
鉛筆の跡、筆跡の強弱を見ていたらじーんとしてしまいました。

この手帳は10月27日までで、その後はレプリカになってしまいますので
見たい方はそれまでにぜひ。

       ※

駿府博物館
特別展 没後80年「宮沢賢治・詩と絵の宇宙 雨ニモマケズの心」

2013年10月12日(土)-2013年11月24日(日)

開館時間
午前9時30分~午後5時30分(入館は午後5時まで)

休 館 日
月曜日(※10月14日、11月4日は開館し、翌日休館

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