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なぜまだ「ヒドリ」? [思うこと]

宮沢和樹さんの講演会で
「ヒデリ」・「ヒドリ」についての質問が出たことから
ここ数日、そのことについて検索したり調べたりしています。

入沢康夫さんの
『「ヒドリ」か、「ヒデリ」か 宮沢賢治「雨ニモマケズ」中の一語をめぐって』(書肆山田)によれば
最初に「ヒドリ=日雇い」説が賢治の教え子によって主張されたのは
1989年9月16日、宮沢賢治研究会の例会でのこと。
さらに翌月の10月9日には、読売新聞全国版社会面で大きく報道されました。
(なぜこんなことが大々的に報道されたのかという疑問が残ります。)

折に触れ、入沢さんをはじめとする実績のある研究家の方々によって
「ヒデリ」とする明確な理由と根拠が示されているにもかかわらず
以降、「ヒドリ」説はなぜか支持する人が絶えず、
現在でもネット上のあちこちで議論されていたりします。
まさに馬の耳に念仏のように、聞く耳を持たない人が多いのに驚きます。

議論を幾つか見ていると気づくことがあります。
「ヒドリ」が正しいと言う人の共通点は、
①ヒドリは日雇いの意味の花巻方言だと言い張るだけでその根拠はいっこうに示さない。
②賢治が書いたものを勝手に書き換えるとはなんたることだと怒る。
さらに酷い人になると
③一部の賢治の会や人々による陰謀だという。
④我こそは賢治の真の理解者だと自負している。

「ヒドリ」支持の人は「日照りに不作なし」という諺を挙げていますが、
それは明治以降の灌漑が整った地域でのことであり
花巻でも昭和36年に豊沢ダムができるまでは農民は旱魃に苦しめられていました。
ふと思うに、もし花巻で「ヒデリにケガチなし」と言った人があったとしたら、
ダムができ、これでもう水不足を恐れることがなくなったという
喜びを表していたのではなかったかと思います。

賢治の書いたものを勝手に直すとはけしからん、
その通りに表示すべきだというのなら、
「北にケンクワヤソショウガアレバ」の前に書かれている
「行ッテ」も必ず書かねばならないはずですが、
それを主張する人にまだ会ったことがないのはなぜでしょうか。

頑固に「ヒドリ」を主張する人は、いったい何のために?
というのが私の素朴な疑問です。 


 ※最後から2行目、肝心なところで「ヒドリ」を「ヒデリ」と間違えて書いていました。
   指摘して頂いたので、訂正しました。ありがとうございました。(10/18)
   
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コメント 6

佐々木伸行

 手帳にはっきり「ヒドリ」と書いていちるのを見て、意識しだしました。しかし、花巻の出身ですが、ヒドリという言葉は一度も聞いた事が無いのです。
 全体が平易な(普通に分かる)言葉で綴られているのに、たった一つだけ意味に解説を要する言葉が使われている、とするのは無理だと思います。 私には、ヒデリの誤記であるとしか思えません。

 2012・1・5付け、産経新聞の切り抜きが豊沢ダム40年記念誌に挿んで有ります。  〈・・もっとも、二千数百年前に伝来した米を、日本人が当たり前のように食べられるようになったのは、近年にすぎない。 ゆえに日本人は「米食民族」ではなく「米食悲願民族」だと言っているのが、農学者の渡部忠世さんだ。 「悲願として可能なところのすべてに水田を拓き、一回でも多く米を食べることを願ってきた」(『稲の大地』小学館)。・・〉
 岩手県が米を自給出来るようになったのは、昭和20年代も半ばを過ぎてからと聞いたことがあります。

 南方の植物を北で育てる、無理に拓いた水田には、”サムサノ夏、ヒデリノ時”、は常に付いて回った問題。(賢治の苦悩も)

 記念誌にはダムが出来る前の水確保の苦労について座談、体験談が載っています。 しかし、ヒデリの辛さの実体験を持つ方はもはや、数少なくなっているものと思います。
by 佐々木伸行 (2013-10-18 23:36) 

signaless

佐々木伸行様

コメントありがとうございます。

「全体が平易な(普通に分かる)言葉で綴られているのに、たった一つだけ意味に解説を要する言葉が使われている、とするのは無理だと思います」とのご意見、まったく仰るとおりだと思います。

今日、入沢康夫さんがツイッターで次のように書いておられました。
《1989年に「ヒドリ=日傭仕事」説を唱えたT氏が、同年10月、河北新報の記者にこう語っている。
「方言としてヒドリという言葉が本当にあったのか、今は記録もなく年配の方々も記憶が薄れ、確証を得るのは難しい。ただ方言があるかないかより、まず原文に戻してほしいというのが私の本意です。」
方言としてヒドリという言葉が本当にあったのかという疑問に対する甚だ確信の無い気弱な言明である。また、「まず原文に戻せ」は、本文校訂の意義の無視という他はない。》

言葉の意味は後付ということを自分で言ってしまったようなものですが、どういうことなのかと首をひねります。Tさんはいったい何がしたかったのでしょうね。

東北に稲作を導入したのは、中央の時の権力者が東北=蝦夷を支配するためだった、という歴史考を読んで、納得したのを覚えています。

私は世の中が便利になり食べ物も豊富にある時代に育ちましたが、先人の苦労は語り継がれるべきだと思います。忘れてはいけないことがあるはずですよね。
by signaless (2013-10-19 18:42) 

アヨアン・イゴカー

>「方言としてヒドリという言葉が本当にあったのか、今は記録もなく年配の方々も記憶が薄れ、確証を得るのは難しい。ただ方言があるかないかより、まず原文に戻してほしいというのが私の本意です。」
ヒドリと言う言葉が何を意味していたのか、よく知りませんが、手帳に書かれたまま印刷しておいて欲しい、と言う考え方は理解できます。史料批判の観点から、誰にでもそのように読み取ることが出来るものは、そのままにしておいて、読み手の判断に任せる、それでよいのではないかと。
日雇いのことをヒドリと言うかどうか知りません。半世紀も前ですが、子供の頃、北海道の我が家にも日雇い(デメン取り)と呼ばれる人々が、農作業の労働力として来ていました。労働そのものは大変ですが、それは両親と同じ労働でしたので、デメン取りの人々だけを酷使したわけでは全くありません。その事を思い出すと、「ヒドリノトキハナミダヲナガシ」と言う状況が当てはまるようには思われません。やはり、旱の時はの方がしっくりときます。父は毎年旱魃や冷害などの凶作を恐れていました。
by アヨアン・イゴカー (2013-10-20 14:11) 

signaless

アヨアン・イゴカー様
いつもありがとうございます。

「日雇い」に関する貴重な証言、たいへん参考になります。仕事があり、お金がもらえるということは決して涙をながすようなことではなかったはずですよね。

賢治の書いたものについては、ほとんどの原稿は清書されないままで残っています。これを「原文のままであるべきだ」というなら、すべての作品の書き間違いもそのまま活字にしなければならないことになります。
『雨ニモマケズ』においては特に、手帳に書きなぐられたものであり、削除や訂正も賢治の手でされていますが、書きながら直しながら書き付けていったものと推測され、ヒドリ部分だけは自分で間違いに気づかず見逃してしまったと考えるのが自然です。
実際に賢治は「束」を「朿」と書き間違えていますが、これはそのままにするべきという声はありません。
遺族や研究家が「ヒデリ」としてきたのは、相当の確証があるからで、充分納得のできるものだと私は思っています。
by signaless (2013-10-21 10:17) 

アヨアン・イゴカー

<追加>デメン取りは、書き落としましたが、収穫などの繁忙期だけ来て貰っていたようです。デメンについては、デイメン(Day man)だという説もあるようですが、辞書にはday labourerが日雇労働者とでていますので、この表現が現場ではday man(この表現では男性に限られますが)になり使われたと考えることもできるかもしれません。あくまで推測ですが。
ちなみに北海道では馬に後退するように指示するときは「バイキ、バイキ」と言っていた、と母が言っていました。これは英語のBackからであろう、と言うことも。
小麦粉をメリケンというのも、American flourのァメリケンフラワーのメリケンだけを聴き取ったものと言われていますから、このデメンもアメリカ人の農業指導者たちの英語を聴きかじった人たちが使ってきたのかもしれません。
by アヨアン・イゴカー (2013-10-21 13:06) 

signaless

アヨアン・イゴカー様
なるほど!「デメン」はデイメンDay manなんですね。
私もそうだと思いますよ。
バイキがBack。確かにネイティブの発音は「バック」ではなく「バィキ」に近いですものね。
うちの母もメリケン粉と言ってましたし。(今の若い人は言わないのかなー?)そうやって考えてみると面白いですね。

…じゃあ、ヒドリは…なんちゃって。

ご両親も北海道でご苦労なさったのではないかと想像します。

by signaless (2013-10-21 19:23) 

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