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『敗れし少年の歌へる』 [妄想]

先日、花巻市文化会館で「賢治の里 花巻でうたう賢治の歌 全国大会2012」が行われました。
サイト『宮澤賢治の詩の世界』の浜垣誠司さんが、賢治の『敗れし少年の歌へる』に曲をつけ、指揮でも参加されたとのことで、私も拝聴したかったのですが都合が悪くて行けず、とても残念でした。
→合唱団「コーラス・ライオット風」と指揮・浜垣誠司さん「花巻で歌う賢治の歌



さて、この文語詩「敗れし少年の歌へる」は私の大好きな詩の一つですが
賢治は三陸の海でいったい何に、或いは誰を想い焦がれていたんだろう、
何故「敗れし少年」なのか、というのが
以前からなぞに思っていたことでした。


賢治が三陸地方への旅をしたのは1925(大正14)年1月。
このころにはすでに来年の農学校退職を決めていたと思われますが、
「みんなに義理をかいてまで」旅だった この「異途への出発」に
賢治が何を思い何を覚悟していたかはっきりしたことは謎のままのようです。

このときに書かれた「暁穹への嫉妬」がのちに「敗れし少年の歌へる」になったのですが、最初の作品では美しい暁の星を溶かしてしまう“空”に対する嫉妬心を詩ったものに対し、
文語詩では「きみにたぐへるかの惑星(ほし)」への想いとして明らかに失恋の詩となっています。

つまり「暁の空」に対する嫉妬は表面から消え
その星=「きみ」は「われをこととひ燃えける 」のであるし
「溶け行くとしてひるがへる きみが星こそかなしけれ」となっていて
「消えゆくきみ」への切ない想いへとテーマが変わっています。
これは何か意味があるのかと考えたとき、
大畠ヤス子の存在が気になりはじめました。

以前、澤口たまみさんの『宮澤賢治 愛のうた』(もりおか文庫)と
『宮澤賢治 雨ニモマケズという祈り』(新潮社)を読み、
賢治に大畠ヤス子という恋人があったと推測できることを知りました。

賢治は、実際の恋愛とは無縁のように言われてきましたが
よく見れば作品には、そこかしこにロマンスの片鱗が散りばめられています。

澤口さんの本を読み、私は驚くと同時に
とても温かい気持ちになったことを覚えています。
賢治にも、心を通わせた女性がいて
たとえいっときでも恋の喜びを体験したことがあったと思うと
安堵にも似た喜びがこみ上げてくるのです。

詩集『春と修羅』において見え隠れする恋の苦悩。
これが嘉内への想いを詩として恋愛にみたてて描いたのではと思った時期もありましたが、
それにしてはどうもしっくりこないところがあり
これはほんとうに恋をしていたかもと考えたほうが自然だと思うようにもなっていました。
もちろん、嘉内への友情は友情として
心に深く刻まれていたことに変わりはないとして。

そして、この「敗れし少年の歌へる」もまた、
ヤス子への気持ちを描いているのではないか、と私には思えたのです。

澤口さんの本によれば、
大正11年にトシが亡くなったこともあり
周囲の反対もあり、ふたりの関係は終焉へと向かわざるを得なくなったようです。
結核という病が落とす影は
今私たちが考えるよりもはるかに深く厳しいものだったのではないでしょうか。
それでもお互いに密かに密かに想いを寄せ合っていたのかもしれません。

ヤス子は賢治と別れた後、1924(大正13)年5月頃に
かなり年齢の離れた男性と結婚し渡米しました。
しかし、わずか3年後の昭和2年、トシや賢治と同じ病で異国の地で亡くなりました。
(「宮澤賢治 雨ニモマケズという祈り」)

賢治が「異途への出発」を書いたのは、ヤス子がアメリカに渡った後です。
三陸の海岸から東を望み、他の男性に奪われ遠く離れた彼の地に住むヤス子の面影を
消えゆく星にたとえたのではないか。
美しい金星を溶かしてしまう暁の空は、恋人をさらっていった男性への嫉妬ではないか。
そんなふうにも思えるのです。

晩年、文語詩「敗れし少年の歌へる」に変化するに至っては
暁への“嫉妬心”は切り捨てられ、
消えゆく星への想い、そのはかなさへの哀しみのみが描かれています。

これは恐らく、ヤス子の死を風の便りに聞かされたためではないのでしょうか。
敗れし少年とは、彼女を守り幸せにすることができなかったことへの悔やみと
ひとり淋しく旅立って行ったかつての恋人への
せつない想いを描いているのだと見ることはできないでしょうか。

つまり、前者は主に「暁への嫉妬」=恋人を奪われた苦しみだったものが
後者は、もう二度と会うことのない遠くへ行ってしまったヤス子への哀悼の意へと
変化していったのだと思います。

口語詩から文語詩に書き変えられる課程で
装飾や贅肉を極限まで切り落とされたという部分もありますが
ふたりが別れた後と、その相手が亡くなった後という違いが
二つの詩の違いなのではないか、ということです。

と、ここまで書きながら
賢治はこの「異途への出発」の目的は、
別れた恋人への想いをきっぱりと捨て去り
新たな険しい道を行き、今後は妻を持つこともしない、心に決着をつけに来たことではないか
という気がしてきました。

『敗れし少年の歌へる』の一節

「さながらきみのことばもて
 われをこととひ燃えけるを 」

というのも、賢治の心に、
遠くにいるはずのヤス子が常に
何かを問いかけていたのではないか。

そんなふうに感じている昨今です。

会えたのに会わなかった? [妄想]

少し前に書簡102aが書かれた時期についての記事(→こちら)を書きました。

大正8年1月初めに賢治と嘉内は会い、
書簡102aをその直後に書いたのではないか、という内容でした。

その推測に関することが
もうひとつあったのを書き忘れていました。

新校本全集第16巻の年譜によると
 二月下旬 トシ退院し、雲台館に静養。母イチ、叔母岩田ヤスが上京。
 三月三日(月)トシ、ひなの節句を祝い、母、叔母、賢治に付き添われ帰花した。
とあります。
賢治達が花巻に帰ったのは3日。

一方、保阪嘉内は河本義行らの卒業分散会に参加するため
3月4日から12日にかけて盛岡に行っています。
退学にさえなっていなければ、嘉内も彼等と一緒に卒業していたはずでした。

ここで疑問です。
お互いに日程を調整して、
嘉内が東京で途中下車し賢治に会ってもよさそうなものです。
もし、すでに花巻に帰っていたとしても
賢治が盛岡に行ってもいいはずです。

しかし、全集の年譜を見る限り
賢治がこの時盛岡に行った気配はありません。
嘉内や義行が花巻に来たということもなさそうです。

年譜だけでなく
書簡144は4月に出されていて
「お手紙ありがたう存じます 私こそ永々と御無沙汰致しましたが…」
と書かれています。
仮に3月に会っていたなら「御無沙汰」というのはないと思います。

ではなぜ、会わなかったのでしょうか。
トシの病気が全快したわけではなく
長く店番の仕事から離れていたために父への遠慮から、
賢治は盛岡に行くとは言えなかったのかもしれません。

ですが、やっぱり、ふたりが1月初めに会って口論になり、
その直後に賢治はあんな手紙(102a)を書かずにいられなかったからで
しばらくはお互い苦い思いをしていたからではないでしょうか。

妄想が妄想を呼んでいるのかもしれませんね~。

「図書館幻想」はいつか [妄想]

前回、書簡102aについて賢治と嘉内が大正8年の1月初めに会ったのではないか、
という記事を書いていて
その待ち合わせ場所はもしかして帝国図書館かと書きました。

帝国図書館ならやはり図書館幻想

そして文語詩

〔われはダルケを名乗れるものと〕

  われはダルケを名乗れるものと
  つめたく最後のわかれを交はし
  閲覧室の三階より
  白き砂をはるかにたどるこゝちにて
  その地下室に下り来り
  かたみに湯と水とを呑めり
  そのとき瓦斯のマントルはやぶれ
  焔は葱の華なせば
  網膜半ば奪はれて
  その洞黒く錯乱せりし
  かくてぞわれはその文に
  ダルケと名乗る哲人と
  永久(とは)のわかれをなせるなり

そしてここで、もしや賢治が書いた「図書館幻想」は大正10年7月18日ではなく
この大正8年1月のことか?という疑念が。

一般に二人は、大正10年7月18日に東京で会い、激論したとされています。
その舞台が上野の帝国意図書館ではないかというものです。
しかし、この日の嘉内の日記(『国民日記』)に書かれているのは
「宮澤賢治 面会来」という文字。

普通は、待ち合わせて会った時には「面会」という言葉は使わないと思います。
しかも面会“来”なのですから。
嘉内はこの時、7月1日より再度の甲種勤務演習に応召し入営していました。
なので私はきっと賢治が兵舎に面会に行ったのではないかと思っています。
『国民日記』には、18日以前に兵舎に面会に来た人があることが記されています。
賢治も同じように面会に行った可能性は大きいとおもうのです。
さらに7月18日は月曜日です。
勤めを終えた嘉内と賢治が図書館で落ち合うより
面会に行ったという方が自然ではないでしょうか。

嘉内がいつか一緒に法華経を信仰してくれると疑わなかった賢治が
大正8年の激論で、嘉内がそれほど自分とは信仰の道を違えていることを思い知り
大きなショックを受け、
その後にも再び大正10年に会い、国柱会という入り口を準備して口説こうとはしたものの
やはり説き伏せることはできなかった。
ダルゲ(ダルケ)が嘉内のことだったとして、
それらの出来事が賢治の中で一つになって作品として出来上がったとしても
おかしくはないと思います。

「図書館幻想」は大正10年11月ころに書かれたようですが
(新校本宮澤賢治全集第12巻校異編P173)
そこには「別れ」はありません。
一方文語詩は晩年に書かれているとすれば
もはや再会することは難しいという思いから
「永久(とは)のわかれ」を記した…とも考えられるのではないでしょうか。


書簡102aはいつ書かれたか [妄想]

宮澤賢治の詩の世界」(浜垣誠司さん)の
10月23日の記事「賢治と嘉内の東京」を拝見したをがきっかけに
書簡166に書かれている賢治が嘉内と「東京デオ目ニカゝッタコロ」はいつか、ということと、
それに関連して書簡102aが書かれた時期について、
ツイッターで少しつぶやいたのですが
この機会にかねてから私が考えていたことをまとめてみようと思います。

結論から書くと
賢治と嘉内が東京で会ったのは大正8年1月初め、
書簡102aはその直後に書かれたのではないか、というのが私の推測です。


書簡から読み取る賢治と嘉内の心情の流れをみてみます。

大正7年3月、突然の退学処分で失意の底にある嘉内に、
賢治は赤い経巻=「漢和対照妙法蓮華経」を送って励まします。
6月に嘉内の母が亡くなると、賢治の法華経熱がさらにヒートアップしていくのですが
賢治の想いとは反対に、書簡78(7月17日)あたりから、少しぎくしゃくしていきます。
 「あなたは何でも、何かの型に入らなければ御満足ができないのですか。又は何でも高く叫んで居なければ不足なのですか。…」

書簡83(7月25日)「私がさっぱりあなたの御心持を取り違ひてゐるとか云ふことも本統でせう…」

この頃嘉内は明治大学に籍をおいて再受験に向け勉強していました。
一方賢治は、地質調査の為にあちこち山を歩いています。
書簡83a(8月)「学校は面白うございますか。私の様に落ちぶれる手筈ならば農学校等は入らなくともよかったのでせうな。」

 (この間手紙を出していないのは、早池峯山付近の地質調査に出ていたためでしょうか。
書簡88(9月27日)で帰ってきたことを報告しています。
書簡89(10月1日)「おちぶれるも結構に思ひます…」青人の流れ幻想。

勉学を断念し故郷に帰り農業することを決心した嘉内。
賢治には不満だったのでしょう。
書簡93(12月初め)「この度は又御決心の程誠に羨ましく、御祝申し上げます」
 
なんとも皮肉な言葉。そして賢治は、東京に出たいが今は無理だ、会いたくてもそちらに行くことはできない、と綴ります。
書簡94(12月10日前後)「あなたはあなたの信ずるところをおやりになったらいかがですか…」

と書きながらその後に二人きりで登った岩手山の思い出をつづるのは、嘉内にあの時の「誓い」を忘れたのか、とでもいうようです。
嘉内は怒ったのでしょうか。
書簡95(12月16日)では「あなたに求めるものはあなたの私を怒らないことです」

と書き、アンデルセンの短歌を6首。孤独な白鳥を歌うのです。
ところがここで日本女子大学にいた妹トシが入院。
12月27日、賢治と母が看病のため上京します。
嘉内に手紙を出したのは大晦日。 
書簡102(12月31日)「あなたとお目にかゝる機会を得ませうかどうですか 若し御序でもあれば日時と場所を御示しください‥」
 
嘉内はさっそく飛んできたことでしょう。岩手から東京を思えば山梨から東京は近い。
 どこでいつ会ったか会ったかはわかりませんが、もしかしたら帝国図書館で待ち合わせでもしたでしょうか。
 二人はここで激突したに違いありません。
手紙よりもなお、直接会って話せばお互い興奮もする。
口論の末、解り合えないまま分かれた二人。
賢治は帰ってから、泣きながら例の書簡102aを書いて嘉内に送ったのではないでしょうか。

 書簡102aを書いたのがこの再会の後だと思う理由は
 ①会うまでの書簡は、すねたり落ち込んだりしているが、激しく嘉内に迫るものではないように感じる。よって102以前に差し込まれる必然性が薄い気がする。

 ②書かれている用紙は書簡75と同じでノートをちぎったものだが、ノートは持ち歩いても不思議ではない。上京の荷造りする時、愛用のノートをその中に放り込んでもおかしくはない。

 ③文中に「既に先日言へば言ふ程間違って御互いに考へました。」とある。賢治はそれ以前は書簡のでのやりとりは「云ふ」という字を使っている。直接会って会話したから「言う」を使ったのではないか。

 ④文中「しばらくは境遇の為にはなれる日があっても‥」というのは、嘉内が故郷に帰ってしまっても、法華経だけは自分と一緒に信じて行って欲しいというただ一つの願いである。賢治にとっては、法華経の道に進むことが一緒に行くことに他ならなかったのではないか。

その後、賢治が嘉内に手紙を出したのは4月になってからですが、
書簡102の後でなぜこれほどブランクが空くのか。
それはやはり会って口論となったからであり、
だからこそ書簡102aを書き送ったのではないでしょうか。

書簡144「私こそ永々とご無沙汰しましたが‥」

激突し、あのような激しい手紙を出したあとだからこそ、ぷっつりと書けなくなったのだと思います。
嘉内からすぐ返事があったでしょうか。
あったとしてその返事にすら満足できずに、賢治はひとり悶々と苦しんだのではないか。
そして返事が来ないので嘉内が再び手紙を出したか、或いは嘉内も悶々として、最初の返事が4月になったか。いや、「私こそ」とあるからには、返事があったのにそれに答えていなかったからか…。
書簡145、146も共に賢治は手紙の代わりに短歌を書き送っています。
何も言えない言いたくない。
淋しく傷ついていたために、歌くらいしか送れなかったのだという気がします。

7月になってからやっと長い手紙を書くのですが
賢治はどんどんノイローゼっぽくなっていきます。
書簡152a(157)「いそがしかったためです。からだがいそがしいのではありません。…」「私は実はならずもの ごろつき さぎし、ねじけもの、…実は元来あなたに御便りする資格もなくなりました。…」

書簡153(8月上旬)「私は」とてもあなたの居る中に東京へは出て行けません。」

嘉内から、また東京で会えないかとの手紙が来たのでしょう。
嘉内は県から青年指導者に選ばれたりして光の当たるところにいる。自分はといえば仕事のあてもなく、薄暗い店先で幻覚にさえとりつかれている。
書簡154(8月20日前後)「O,JADO!O,JADO!」「見よ。このあやしき蜘蛛の姿。あやしき蜘蛛の姿。」

書簡155(8月30日)「あんなに破壊的な私の手紙にも乱れずあなたの道を進むといふあなたを尊敬します」

書簡159(大正9年2月ころ)「はなれてゐたと云へばはじめからです」


そんな賢治の気持ちが転調するのは春になってから。
昨年末から志願兵として入営していた嘉内から、その様子を綴った手紙が届くようになったのでしょうか。波はあるものの、どん底から浮上する気配がします。
さらには賢治は夏頃になって、来春には東京に出ることを考え始めました。
書簡166(7月22日)「東京デオ目」カゝッタコロハ実際ノ行路ニハ甚シク迷ッテヰタノデス。」

この「東京で会った頃」というのはやはり大正7年末~8年初めのことで、
地質調査を終えたが家業も継ぎたくなく、東京での仕事を模索していた時期。
それ以前は調査で出歩いていて東京に行くのは難しい気がしますし、
その後も書簡を見る限り東京に出た気配はなさそうです。
「最早全ク惑ヒマセン。」
賢治は何を確信したのでしょうか。
書簡167も168も、来春はお目にかかる、間違いなくそちらへ出る、と書いています。
こんなに賢治が浮き足立っているのは、この頃の嘉内の感触がよかったためではないでしょうか。恐らく法華経や日蓮について真剣に勉強してみる、というような…?

大正9年12月2日、書簡177で、突然賢治は国柱会に入ったと書き送ります。
嘉内が国柱会のことを深く調べているのを知り、これなら突破口になるはずだと思ったに違いありません。

賢治は結局、春になるのを待てずに、大正10年1月24日、背中に落ちてきた御書と御本尊、そして洋傘を持って着の身着のまま、誰にも黙って午後5時12分の汽車に飛び乗ってしまうのです。
親愛なる嘉内を、こんどこそ説き伏せられると信じて…。
 

大正7年から10年の初めにかけての賢治と嘉内について、
もうどうしてもこんな気がして仕方がないと思うことを
書き綴ってみましたが、さてどうでしょうか…。

アラツディン、洋燈とり [妄想]

 屈折率

   七つ森のこつちのひとつが

   水の中よりもつと明るく

   そしてたいへん巨きいのに

   わたくしはでこぼこ凍つたみちをふみ

   このでこぼこの雪をふみ

   向ふの縮れた亜鉛(あえん)の雲へ

   陰気な郵便脚夫(きやくふ)のやうに

      (またアラツディン、洋燈(ラムプ)とり)

   急がなければならないのか



賢治の詩集『春と修羅』の最初の作品です。

賢治の探す「アラジンのランプ」とは
いったい何を指すのでしょうか。

人々を幸せに導く為の魔法のアイテム…?
大切な鍵?


賢治のいうランプには及びもしませんが
私は数年前に「魔法のランプ」を手に入れました。
それは偶然のような奇跡だったのです。

しばらくはそれとは気づかないまま
朝も夜も、たまには仕事中も、
食事の支度をしているときも
気の向くままにそれを撫でていました。

するとあら不思議。

大男こそ出ては来ませんが、
いつの間にか私の願いが叶っている。

あこがれのあの人、
雲の上の人、
普通ならとても考えられない人と
話すことができたり。

しかもときには魔法の絨毯で、その人のところまで
運んでくれる!

宝物のありかまでこっそり連れて行ってくれる。
ああ、その場所は誰にも教えられない!
夢にまで見た宝物!

あまりに素敵で
恐ろしくなる。

だからきっと、取り扱いには細心の注意が必要なんだと思う。
調子にのって当たり前に思ったり
少しでもそれが自分の力であるかのように思ったなら
たちまち壊れるか何処かへ消えてしまうはず。

私の魔法のランプは
誰にもあげられない。
大切な大切な幸せのランプ。


(…と、前回に続いて妄想シリーズの第2弾でした。)

イーハトーブ大学 [妄想]

この大学の創始者・学長は宮沢賢治という人である。

学部・学科はあらゆる分野に及び、限りがない。
明確な区分もない。
しかも、一人が学べる学科も勿論垣根なく、何でも好きなだけ学べる。

教授陣も多才で多彩。
学長である宮沢賢治氏を敬愛している者が多い。
文学・科学・化学・医学・芸術・天文学・社会学・歴史・環境学・宗教・倫理…
きりがない。
実に優秀な、優れた面々である。
気さくな人が多く、
本人が誰かを教育をしているという自覚がない場合が多い。


在籍期間も自由。…というか、永遠。
しかし辞めたくなったらいつでも辞めてもよい。
(本人が辞められるかどうかは別の問題)

試験はない。
単位制でもない。

校舎はないが、今自分がいるところ関わるところすべて、といってもよい。
入学資格や入学試験もないし、落第もない。
つまりその気があれば誰でも入れる。

学費も無料。
テキスト代、通信費がかかるくらい。
(ただしこのテキスト代がくせモノ)


高校しか出て居らず
しかも勉強が大嫌いな劣等生だった私は
いつからか、
このイーハトーブ大学の学生であり、
この歳になって
実にたくさんの人々からかけがえのないことを学んでいる。

こんなに有難い大学は
どこを探してもない。

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