賢治と嘉内の関係(自省と決意)~『賢治の北斗七星』から [思うこと]
「嘉内は、親交、対立、離別、そして心友としての尊敬の回復という友情のドラマを通して、賢治の人間的・思想的成長に、決定的にかかわった人です。」
こう三上さんが書かれているとおり
賢治は保阪嘉内から生涯大きな影響を受けたのだと思っています。
そして宮澤賢治という人を深く理解しようとするとき
保阪嘉内のことを抜きにしては考えられないとも。
盛岡高等農林卒業後の四年間が、
賢治にとっては最も暗く苦しい時期でした。
苦悩と先の見えない暗闇のなかで、賢治の支えは法華経であり、
共に同じ道を進もうと誓い合った友への切実な望みは
信仰も同じくすることでした。
父との衝突が増えるほど
「いっそう激しい苦悩、ときには絶望、そしてその反動としての狂信、嘉内への信仰の強要、懇願・哀願」 が強くなっていきます。
ところが、家出・上京した賢治に待っていたのは
賢治の期待に反した
決定的な嘉内の拒絶でした。
大正10年7月18日がその日だと言われています。
そして、それが二人の訣別だと。
それは絶交のニュアンスを含み、その後は形の上だけの交際かのように
されてきたのではないでしょうか。
ある時から、私はこのことに疑問をもってきましたが
この本を読み、さらにそうではないのでは、という思いを強くしました。
このファナティックな信仰、相手の魂の救済という善意があるにせよ、嘉内に対して見せた激しい強要、それに応じなかった嘉内の矜持、賢治は七月から八月の悲嘆の一月のなかで、自分の信仰を他人の魂の内部にまで乱暴にふみ入って強要することへの誤りに、深く深く気づいたのでしょう。これは賢治の生涯と思想の展開をみれば、あきらかだと思います。
賢治は二一年夏の一ヶ月間に、みずからが行った嘉内への人間的非礼を恥じ、信仰を強要することの誤りをさとり、他の信仰や価値観への寛容ということに目ざめていったのでしょう。
…そうだ、そうに違いない。
わかっていたようで、わかってなかった。
かたくなに、自分だけが正しくて他人は間違っていると思い続けていたのだとしたら
こんなに愚かなことはない。
賢治がもし、いつまでも心にわだかまりを持ったまま
嘉内に歩み寄ることをしなかったのだとしたら
そんな人間は、傲慢で、独りよがりでわからずや、ということだ…
賢治は、「こんな事では一人の心をも理解し兼ねると思って」(書簡197)
(おそらく泣きながら?)肉を口にし、深く深く考えたのでしょう。
結局肉食をしたってわからなかったかもしれませんが。
「文壇という脚気みたいなもの」(同)という言葉のうしろには
自分を見つめることをおろそかにし、他人に“形”を強要したことへの
反省がみえるような気がしますが、どうでしょうか。
花巻に帰り、農学校の教師となった賢治が
12月頃に出した嘉内あて書簡199には
「何からかにからすっかり下等になりました。(中略)けれどもそれが人間なのなら私はその下等な人間になりまする。」
とあります。
ここには、地に足の着かない理想ばかり思い描いていたプライド高い人間から、
しっかりと自分をみつめる人間へと変わった賢治がいます。
ありのままの姿で生き、そこから何かをつかんでいくことへの覚悟が
現れているように思えてなりません。
「春になったらいらっしゃいませんか」
…私はもう、あの以前の私ではありませんから…
そしてそれゆえに
その後の二人の交際も元のように
あるいはそれ以上に、深く信頼あるものになっていったに違いないと確信します。
嘉内に拒絶されたあの日から賢治は、
盲信的・狂信的だった法華経を根本から見つめ直し、
外側に向いていたその目を
自分自身の内側へと向ける覚悟と勇気を持ったのではないでしょうか。
その延長上に妹トシとの関わりが絡んでくると思いますが
それはまた次回の記事へ。
※太字は『賢治の北斗七星』(三上満)の抜粋です
こう三上さんが書かれているとおり
賢治は保阪嘉内から生涯大きな影響を受けたのだと思っています。
そして宮澤賢治という人を深く理解しようとするとき
保阪嘉内のことを抜きにしては考えられないとも。
盛岡高等農林卒業後の四年間が、
賢治にとっては最も暗く苦しい時期でした。
苦悩と先の見えない暗闇のなかで、賢治の支えは法華経であり、
共に同じ道を進もうと誓い合った友への切実な望みは
信仰も同じくすることでした。
父との衝突が増えるほど
「いっそう激しい苦悩、ときには絶望、そしてその反動としての狂信、嘉内への信仰の強要、懇願・哀願」 が強くなっていきます。
ところが、家出・上京した賢治に待っていたのは
賢治の期待に反した
決定的な嘉内の拒絶でした。
大正10年7月18日がその日だと言われています。
そして、それが二人の訣別だと。
それは絶交のニュアンスを含み、その後は形の上だけの交際かのように
されてきたのではないでしょうか。
ある時から、私はこのことに疑問をもってきましたが
この本を読み、さらにそうではないのでは、という思いを強くしました。
このファナティックな信仰、相手の魂の救済という善意があるにせよ、嘉内に対して見せた激しい強要、それに応じなかった嘉内の矜持、賢治は七月から八月の悲嘆の一月のなかで、自分の信仰を他人の魂の内部にまで乱暴にふみ入って強要することへの誤りに、深く深く気づいたのでしょう。これは賢治の生涯と思想の展開をみれば、あきらかだと思います。
賢治は二一年夏の一ヶ月間に、みずからが行った嘉内への人間的非礼を恥じ、信仰を強要することの誤りをさとり、他の信仰や価値観への寛容ということに目ざめていったのでしょう。
…そうだ、そうに違いない。
わかっていたようで、わかってなかった。
かたくなに、自分だけが正しくて他人は間違っていると思い続けていたのだとしたら
こんなに愚かなことはない。
賢治がもし、いつまでも心にわだかまりを持ったまま
嘉内に歩み寄ることをしなかったのだとしたら
そんな人間は、傲慢で、独りよがりでわからずや、ということだ…
賢治は、「こんな事では一人の心をも理解し兼ねると思って」(書簡197)
(おそらく泣きながら?)肉を口にし、深く深く考えたのでしょう。
結局肉食をしたってわからなかったかもしれませんが。
「文壇という脚気みたいなもの」(同)という言葉のうしろには
自分を見つめることをおろそかにし、他人に“形”を強要したことへの
反省がみえるような気がしますが、どうでしょうか。
花巻に帰り、農学校の教師となった賢治が
12月頃に出した嘉内あて書簡199には
「何からかにからすっかり下等になりました。(中略)けれどもそれが人間なのなら私はその下等な人間になりまする。」
とあります。
ここには、地に足の着かない理想ばかり思い描いていたプライド高い人間から、
しっかりと自分をみつめる人間へと変わった賢治がいます。
ありのままの姿で生き、そこから何かをつかんでいくことへの覚悟が
現れているように思えてなりません。
「春になったらいらっしゃいませんか」
…私はもう、あの以前の私ではありませんから…
そしてそれゆえに
その後の二人の交際も元のように
あるいはそれ以上に、深く信頼あるものになっていったに違いないと確信します。
嘉内に拒絶されたあの日から賢治は、
盲信的・狂信的だった法華経を根本から見つめ直し、
外側に向いていたその目を
自分自身の内側へと向ける覚悟と勇気を持ったのではないでしょうか。
その延長上に妹トシとの関わりが絡んでくると思いますが
それはまた次回の記事へ。
※太字は『賢治の北斗七星』(三上満)の抜粋です
2012-05-04 23:15
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