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『まほろばの疾風』と『原体剣舞連』 [本]

  原体剣舞連(はらたいけんばいれん)
           (mental sketch modified)

      dah-dah-dah-dah-dah-sko-dah-dah
   こんや異装(いさう)のげん月のした
   鶏(とり)の黒尾を頭巾(づきん)にかざり
   片刃(かたは)の太刀をひらめかす
   原体(はらたい)村の舞手(おどりこ)たちよ
   鴇(とき)いろのはるの樹液(じゆえき)を
   アルペン農の辛酸(しんさん)に投げ
   生(せい)しののめの草いろの火を
   高原の風とひかりにさゝげ
   菩提樹皮(まだかは)と縄とをまとふ
   気圏の戦士わが朋(とも)たちよ
   青らみわたる顥気(かうき)をふかみ
   楢と椈(ぶな)とのうれひをあつめ
   蛇紋山地(じやもんさんち)に篝(かがり)をかかげ
   ひのきの髪をうちゆすり
   まるめろの匂のそらに
   あたらしい星雲を燃せ
      dah-dah-sko-dah-dah
   肌膚(きふ)を腐植と土にけづらせ
   筋骨はつめたい炭酸に粗(あら)び
   月月(つきづき)に日光と風とを焦慮し
   敬虔に年を累(かさ)ねた師父(しふ)たちよ
   こんや銀河と森とのまつり
   准(じゆん)平原の天末線(てんまつせん)に
   さらにも強く鼓を鳴らし
   うす月の雲をどよませ
     Ho! Ho! Ho!

       むかし達谷(たつた)の悪路王(あくろわう)
        まつくらくらの二里の洞(ほら)
        わたるは夢と黒夜神(こくやじん)
        首は刻まれ漬けられ
   アンドロメダもかゞりにゆすれ
        青い仮面(めん)このこけおどし
        太刀を浴びてはいつぷかぷ
        夜風の底の蜘蛛(くも)おどり
        胃袋はいてぎつたぎた
     dah-dah-dah-dah-dah-sko-dah-dah
   さらにただしく刃(やいば)を合(あ)はせ
   霹靂(へきれき)の青火をくだし
   四方(しはう)の夜(よる)の鬼神(きじん)をまねき
   樹液(じゆえき)もふるふこの夜(よ)さひとよ
   赤ひたたれを地にひるがへし
   雹雲(ひやううん)と風とをまつれ
     dah-dah-dah-dahh
   夜風(よかぜ)とどろきひのきはみだれ
   月は射(ゐ)そそぐ銀の矢並
   打つも果(は)てるも火花のいのち
   太刀の軋(きし)りの消えぬひま
     dah-dah-dah-dah-dah-sko-dah-dah
   太刀は稲妻(いなづま)萓穂(かやぼ)のさやぎ
   獅子の星座(せいざ)に散る火の雨の
   消えてあとない天(あま)のがはら
   打つも果てるもひとつのいのち
     dah-dah-dah-dah-dah-sko-dah-dah


賢治がこの詩にうたった悪路王とは、蝦夷(えみし)の首長アテルイのことだといわれています。

私は '92年の最初の岩手旅行で達谷窟毘沙門堂 を訪れているのですが、
なんとも歴史に疎く、蝦夷のことはその昔大和朝廷に従わず刃向かっために征伐された民族、
くらいにしか認識していませんでした。
賢治のこの詩に関しても、よくわかっていなかったのです。


熊谷達也さんの作品『まほろばの疾風(かぜ)』は
そのアテルイの物語です。
まつろわぬ北の民、蝦夷は、屈することを拒み戦いを挑むものの
結局、大和朝廷に飲み込まれてしまう運命でした。
最期まで抵抗し戦い続けた首長アテルイは、
ついには捕らえられ斬首されたのです。
それゆえ、この小説の最後はきっと壮絶で悲惨なものに違いない、
アテルイは大和に対する憎しみと恨みのなか
怨念を残して死んでいったのだと思っていました。。

ところが意外にもここに描かれた結末はそうではありませんでした。
田村麻呂率いる朝廷軍に包囲されもはやこれまでと観念したアテルイとモレは
大和に屈していいなりになるよりは、自ら首を切られることを選びます。
処刑場でアテルイとモレが最後に見たのは青空と白い雲。

「我ら蝦夷よ、未来永劫、北のまほろばに吹き荒れる疾風(かぜ)となれ!」

彼らが最後まで保ち続けたのは誇りであり、
精一杯生き、力の限り戦いぬいた者の潔さは
すがすがしささえ感じました。
かつて現在の岩手を中心に躍動した部族たちがそこに在り、
そして今も、かれらは大気圏の風になって
吹きわたっているのだと思うと
なんとも言えぬ感動に包まれました。

東北が今もなお、なにかしら侵しがたい雰囲気があるのも
きっと彼らが永劫その地を見つめ包んでいるからなのではないかと思えるのです。

「打つも果(は)てるも火花のいのち
   太刀の軋(きし)りの消えぬひま」と賢治がいったとおり
敵も味方も、すべては一瞬の夢のようなこと。
しかしその一瞬の命をどう燃やすかは、とても大事なことだと思います。
これは当時のような「戦」などとは無縁の現代人においても
言えることだと思うのです。

どうせ短い命。
それなら何ものにも屈せず
つまらない欲や他人の価値観などに振り回されることなく
己の思うままに、納得のいくままに生きるのがいい。
ひとを恨んだり憎んだりすることもまたばかばかしい。
それよりもひとを思い、愛しいものを守るために戦うのがいい。


平泉の西光寺などの「縁起」には
蝦夷達を「良民を苦しめ女子供を掠める等暴虐限りをつくし」としていますが
これはあくまで中央の側の言い分であって
歴史とは、征服者のものだから仕方がないのだけれど…。


さて、賢治は、蝦夷やアテルイをどうとらえていたのでしょうか。
かねてから『原体剣舞連』の
     青い仮面(めん)このこけおどし
     太刀を浴びてはいつぷかぷ
の部分がどちらの軍のことなのかわかりかねていたのですが
この小説によって、789年の「巣状の戦い」の様子だと合点がいきました。
朝廷軍4000に対し、蝦夷軍300が北上川を隔てて対峙し
背後から回り込んだ800,400が挟み撃ちにし
溺死1036,裸で泳ぎ着く者1257という壊滅状態にさせたのです。(数字はWikipediaによる)

この詩での賢治の描き方は
はじめに「むかし達谷(たつた)の悪路王(あくろわう)」からの4行で
アテルイの死様を描き
その次に「アンドロメダもかゞりにゆすれ」をはさんで
「青い仮面(めん)このこけおどし」からの4行で
朝廷軍の死様を描いて並べています。
ということは、どちらが正義か悪かではなく
「打つも果てるもひとつのいのち」、
同じ地上に生まれた等しい命だということなのではないでしょうか。

「気圏の戦士」とは朝廷軍のことで、野蛮な蝦夷を征伐するさまを
賢治が描いたのだという見解もあるようですが
私にはどうしてもそうとは思えません。

「気圏の戦士」とは未来の担い手、
「アルペン農の辛酸(しんさん)」に身をささげる原体村の踊り子達であり、
「敬虔に年を累(かさ)ねた師父(しふ)たち」への畏敬の念と
彼らに接した感動にほかならないのではないでしょうか。

鬼剣舞は念仏踊りが起源ともいわれ
祖先の霊を鎮めるためとも、蝦夷たちの悪霊を退散させるためともいわれますが
『原体剣舞連』を読むと、蝦夷たちの霊を慰める鎮魂の舞だという気がします。
とても賢治が悪霊退散の舞と捉えていたとは思えないのです。

アテルイの息子人首(ひとかべ)は父の死を伝え聞き、
攻め込んでいって討ち死にしたといわれ
その時まだ15,6才の若さだったといいます。
その最期の地は、賢治の好きな種山ヶ原でした。
そういえばたしかに「人首」という地名があります。


1917(大正6)年の秋、21才の若き賢治が
黒い装束に鬼の面を着け、頭の飾り羽根をゆらし
舞い踊る剣舞を初めて見たとき、
蝦夷の力強さと妖しさに惹かれ、覚えたのは
かつてこの地で、儚く消えたたくさんの命への鎮魂と
野山を駆け抜けた勇ましくまつろわぬ者達への憧れ、
その舞を長く伝え続けてきた人々への畏敬の念だったのではないでしょうか。

今は同じく熊谷さんの『荒蝦夷』を読んでいますが
こちらはアテルイの父(?)アザマロが中心の話。
違った切り口でこれもまた面白いのです。

さらにその後は今度は高橋克彦さんの『火怨』を読むつもりであり、
すっかりアテルイにはまってしまっている昨今です。

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アヨアン・イゴカー

この詩には、このような物語があったのですね。一読して、訳が分からないが、dah-dah-dah-dah-dah-sko-dah-dah のリズムが力強い詩だと思っておりました。
by アヨアン・イゴカー (2012-05-26 00:16) 

signaless

アヨアン・イゴカーさん
ありがとうございます。

剣舞には地域によっていろいろあるようですが、鬼の面をつけた勇ましい剣舞はやっぱり蝦夷を連想してしまいます。

賢治が地質調査で山々を歩き回っていて、原体村で剣舞を見たのは21歳のとき。涙がでるほど感動したとか。
その思いをずっと温めてのちにこの詩にしたのですね。
by signaless (2012-05-26 06:26) 

ゆきねこ

こんにちは
関西岩手県人会の有志の会で
関西アレルイ・モレの会というものがあります。
京都にもお出かけください(といいながら
私はまだ出かけていないのですが)。 
詳細はこちら ↓
http://www.iwate-kansai.com/ihatove/vol18.pdf
http://kihiroba.exblog.jp/14019870/
by ゆきねこ (2012-05-26 19:07) 

signaless

ゆきねこさん
ありがとうございます。

今回いろいろ調べていて
清水寺にアテルイとモレの碑があることを知りましたが、
関西岩手県人会の方々がそこで法要をされているとは知りませんでした。また、機会があれば碑前に行ってみようと思います。

奥州市の醸造酒「阿弖流為」、飲んでみたいですね~。

by signaless (2012-05-26 20:39) 

佐々木 伸行

 「夏越の払い」の祝詞を聞くとき、大和朝廷から見た日本の姿をおもいます。 私の能力ではよく理解できないものですが、仙台平野ぐらいまでは朝廷の(安国となし)チカラ及ぶ処、そんな風に勝手に解釈して聞いて居ました。
 「火炎」を何(3)倍か楽しむ方、と言う文が、中路正恒先生のブログに有りました。
 消えた側の、歴史は残らない。それを壮大な想像力で綴りあげたロマン、その中かで、秋田側へも通じていた 故郷の中山街道(と呼んでいたか?)はかなり重要な軍事用道路ではなかったか・・・?、勝手に想像をたくましくします。
 飲んでいるうちに、書きこみたくなりました。
by 佐々木 伸行 (2012-08-28 20:07) 

signaless

佐々木伸行様

ありがとうございます。
アテルイ処刑の後も、大和側は蝦夷には手を焼いてなかなかすんなりとはいかなかったようですね。そんな歴史も知らずにきたことは、恥ずかしいことでした。そもそも、蝦夷とは何なのか。興味はつきません。

今年は9月の賢治祭に参加の予定です。二日目に大沢温泉に泊まってきます(^O^)。数えたら賢治祭も大沢温泉も16年ぶりでした。
なめとこ山や豊沢ダムの方へも行ってきますね~。

by signaless (2012-08-30 21:25) 

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