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『大空放哉傳』河本緑石 [本]

待望の、『大空放哉傳』が2011年春に復刻されました。

大空放哉とは自由律句の尾崎放哉のことです。

緑石は本書を亡くなった年の昭和8年に脱稿しましたが
出版されたのは死後の昭和10年でした。

以前たまたま当時の本を手に取る機会があり
「桃咲くところー自序にかえてー」の部分を読んだことがありました。
そこには放哉の生家を訪ねたときのことが書かれてあり
今は亡き放哉の子供の頃の姿をそこに見る緑石の深い想いが
私にはとてもよくわかり涙が出たのでした。

緑石がなぜそれほど放哉に惹かれたのか。
私はそのあたりにも興味があり、この本の復刻を心待ちにしていたのです。

酒癖が悪く、そのせいで仕事や人間関係もうまくいかなかったといわれている放哉。
大勢がいうからほんとうでもないし、少数だから間違いでもない。
緑石は、不器用な生き方しかできない放哉の心に
常に寄り添って筆を進めています。

緑石自身はといえば、きちんと仕事をし、家庭を大切にして
生徒から「仏さん」というニックネームをもらうほどで
誠意をもって人に優しく真面目に生活をしていた人だけれど
その裡ではどこかたまらなく寂しく何かを渇望する心を抱いていて
それらが作品となっていた人ではないかと思うのですが
どこかで放哉と共感するものを強く感じていたのでしょうか。

放哉は、放浪の人という印象があるけれど
よく見てみると、
1911年に東洋生命保険に入社してから10年は勤め、
その後勤務した朝鮮火災海上保険を1923年に辞めるまでは
サラリーマンとして仕事をしていたのです。
同じ1923年には肋膜炎悪化のため入院しており
それ以降、一燈園、知恩院、常高寺などを転々とし
小豆島の南郷庵に渡ったのは1925年の8月。
そこで亡くなったのは翌年4月7日のこと。

おそらく、肋膜が悪い、というのは結核と結びついており
余命を悟った放哉が、それならばと
ある意味覚悟をもって、長年連れ添った妻とも別れ
世捨て人のような生活を選んだのではないでしょうか。

そう思ってみると、放哉はダメな人、弱い人、という認識とは
少し違って見えてきます。

南郷庵に移ってから数ヶ月、
進行する病とともに冬は辛く厳しくなっていく。

耐えてようやく待ち望んだ春が来て、
あばら屋の机の上に置いた木瓜の鉢の花が咲いたのを見届けて
放哉はひっそりと生涯を閉じました。

『大空放哉傳』の冒頭に書かれている、
「放哉は桃花が好きであった。『私は花が好きで…ドンナ花でもスキだ。花がないと淋しくてね』という放哉。放哉は花が好きであった。」ということば。

緑石の放哉への共感は、その心にあったのでしょうか。




鳥取県倉吉市の河本緑石研究会HP→こちら
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アヨアン・イゴカー

放哉の俳句はいいですね。
by アヨアン・イゴカー (2012-08-19 14:01) 

signaless

アヨアン・イゴカー様、ありがとうございます。
私も放哉の句は好きです。スパッと心に入ってきます。
by signaless (2012-08-20 05:33) 

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